第55話 於政、竜胆をつむこと
藤九郎は、頼朝の
頭のまわりも速ければ、弁も立つ。
はじめは妻に言い含められて伊東の頼朝のもとにやってきたが、やがてはみずから好んで、頼朝の世話を焼くようになった。
その藤九郎が頼朝の心の病を慰めようと見つけてきたのが、北条の
於政はすでに実母を亡くしており、後妻とその娘たちが威をふるう北条の家で、控えめに、したたかに暮らしていた。
なによりの楽しみは、父が都から送ってくれる
ある日、於政はれんを連れ、野に花を摘みに出た。
澄み切った秋空を映す鏡のように、野辺にはあざやかな青色の花々が、露に濡れて咲いていた。
花を摘む手を止め、於政がふりかえった時、そこに、見知らぬ貴人の姿を見た。
急に立ちあがると立ちくらみがして、金色の細かな光が瞳の奥に、
目の前には花咲ける真っ青な野辺が、まるで湖の水面のように、雲ゆく空を映していた。
広大な天空と、幻の海の狭間を、男がゆっくりと渡って来る。
男の一歩のごとに波紋が広がって、こまやかな波が、於政のつま先を洗い、よほろを伝って、胸元にまで押し寄せてくる。
於政が足を進めれば、その波紋は高まる波となり、男の心をふるわせる。
ふたつの波紋は打ち消しあうことなく、互いの高まりを確かめあうように広がり、結び合いながら、永遠の彼方へと遠ざかってゆく。
ふたつの波紋が一致するほどに近づいた時、男と女は――青い鏡の世界に立っていた。
「
於政が先にそう言って、頼朝の胸はどきりとした。
「……その花は?」
「
舌足らずに言って、於政は青い花を差し出した。
頼朝の顔には秋の陽射しが
かれは眩しげな顔をして、於政から目を背けた。
まるで恐れおののいているかのようだった。
……しかし同時に、見ずにはいられないかのようでもあった。
頼朝は青い花をそっと受け取ると、なにげないそぶりで於政の瞳をのぞきこんだ。
途端に、ふたりともが、とらえがたい激情に襲われた。
互いの瞳のなかに、花が咲いていた。
幾千もの、竜胆の青い花が――
◆
得体の知れぬ異様なときめきのなか、ふたりの交際がはじまった。
頼朝は初め、於政を単なる田舎娘としか思っていなかった。
しかし言葉を交わすうちに、なにやら力強い輝きを、娘のうちに感じはじめた。
於政は於政で、この
ふたりは
「於政……『まん』は、わが氏神、
そうした頼朝の一言一言が、於政にはうれしかった。
妻子がいたこと、家族に悲劇が襲いかかったこと……
……それらを聞いた於政は、さすがに心穏やかではいられなかったものの、正直に打ち明けてくれたことは嬉しかった。
恋心はなお、冷めなかった。
過去は過去、今は今だと、都合よく割り切って考えた。
「
頼朝は耳もとでささやいて、ふちの丸い、つややかな緑の葉を差し出した。
梛の葉には、『縁結び』の意味がある。
(うれしい……)
於政は両手を重ねて、受け取った。
その一葉を、手鏡の
(……あが
別の日、於政は妹を呼んで、綺麗な
そのなかには父から貰った、家宝の古い鏡が入っている。
今まで命ほどに大切にしてきた宝物である。
「あげるわ」
「え?」
妹は息を呑んだ。
「欲しがってたじゃない?」
驚きつつ、妹はそそくさと箱を自分の膝元に引き寄せ、中身を確かめた。
「どういう風の吹き回し?」
「ふふ」
と、於政は微笑した。
「もういらないの……」
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