第55話 於政、竜胆をつむこと

 藤九郎は、頼朝の乳姉妹ちきょうだい婿むこである。


 頭のまわりも速ければ、弁も立つ。

 はじめは妻に言い含められて伊東の頼朝のもとにやってきたが、やがてはみずから好んで、頼朝の世話を焼くようになった。


 その藤九郎が頼朝の心の病を慰めようと見つけてきたのが、北条の政姫まんひめ……十九歳の於政おまんであった。


 於政はすでに実母を亡くしており、後妻とその娘たちが威をふるう北条の家で、控えめに、したたかに暮らしていた。

 なによりの楽しみは、父が都から送ってくれる草子そうしで、暇を惜しんで読みふけるから学識も増え、空想力も豊かだった。



 ある日、於政はれんを連れ、野に花を摘みに出た。


 澄み切った秋空を映す鏡のように、野辺にはあざやかな青色の花々が、露に濡れて咲いていた。

 花を摘む手を止め、於政がふりかえった時、そこに、見知らぬ貴人の姿を見た。


 急に立ちあがると立ちくらみがして、金色の細かな光が瞳の奥に、粉雪こなゆきのように飛び散った。

 目の前には花咲ける真っ青な野辺が、まるで湖の水面のように、雲ゆく空を映していた。


 広大な天空と、幻の海の狭間を、男がゆっくりと渡って来る。

 男の一歩のごとに波紋が広がって、こまやかな波が、於政のつま先を洗い、を伝って、胸元にまで押し寄せてくる。

 於政が足を進めれば、その波紋は高まる波となり、男の心をふるわせる。


 ふたつの波紋は打ち消しあうことなく、互いの高まりを確かめあうように広がり、結び合いながら、永遠の彼方へと遠ざかってゆく。

 ふたつの波紋が一致するほどに近づいた時、男と女は――青い鏡の世界に立っていた。


御文おふみを、読みました」

 於政が先にそう言って、頼朝の胸はどきりとした。


「……その花は?」

竜胆りんどう……」

 舌足らずに言って、於政は青い花を差し出した。


 頼朝の顔には秋の陽射しがはすにかかり、深い陰影を穿うがっていた。

 かれは眩しげな顔をして、於政から目を背けた。

 まるで恐れおののいているかのようだった。

 ……しかし同時に、見ずにはいられないかのようでもあった。


 頼朝は青い花をそっと受け取ると、なにげないそぶりで於政の瞳をのぞきこんだ。

 途端に、ふたりともが、とらえがたい激情に襲われた。

 互いの瞳のなかに、花が咲いていた。


 幾千もの、竜胆の青い花が――





 得体の知れぬ異様なときめきのなか、ふたりの交際がはじまった。


 頼朝は初め、於政を単なる田舎娘としか思っていなかった。

 しかし言葉を交わすうちに、なにやら力強い輝きを、娘のうちに感じはじめた。


 於政は於政で、この都出みやこでの十歳ばかりも年上の男に……今は追われる身でさえあるこの男に、甘やかな夢想をかきたてられ、危険な魅力を感じた。

 ふたりは逢瀬おうせを重ねるうちに、互いに離れ難くなった。


「於政……『まん』は、わが氏神、八幡はちまんの神に通ずる。とても縁起のよい名だ」

 そうした頼朝の一言一言が、於政にはうれしかった。


 しとねの闇のなか、内奥の苦悶にこらえきれなくなった頼朝は、かつての哀しい出来事を、ついに打ち明けた。

 妻子がいたこと、家族に悲劇が襲いかかったこと……


 ……それらを聞いた於政は、さすがに心穏やかではいられなかったものの、正直に打ち明けてくれたことは嬉しかった。

 恋心はなお、冷めなかった。

 過去は過去、今は今だと、都合よく割り切って考えた。


伊豆山いずさん権現ごんげんの、なぎの葉だ」

 頼朝は耳もとでささやいて、ふちの丸い、つややかな緑の葉を差し出した。

 梛の葉には、『縁結び』の意味がある。


(うれしい……)

 於政は両手を重ねて、受け取った。

 その一葉を、手鏡のはこのなかに大切にしまった。

(……あがきみ……)


 別の日、於政は妹を呼んで、綺麗な蒔絵まきえの箱を差し出した。

 そのなかには父から貰った、家宝の古い鏡が入っている。

 今まで命ほどに大切にしてきた宝物である。


「あげるわ」

「え?」

 妹は息を呑んだ。


「欲しがってたじゃない?」

 驚きつつ、妹はそそくさと箱を自分の膝元に引き寄せ、中身を確かめた。

「どういう風の吹き回し?」

「ふふ」

 と、於政は微笑した。

「もういらないの……」

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