第六章  青い鏡 (あおいかがみ)

第54話 頼朝、在りし日を回想すること

第三部 救 済 編


第六章 青 い 鏡




   一



 鎌倉本軍はその日のうちに、多賀たが国府を制圧した。


 ここに海沿いを攻め進んできた東海道軍が合流し、兵数は一気に倍に膨らんだ。

 その一方で、北陸道軍が出羽国を制圧したとの嬉しい報告も入り、鎌倉軍の気勢はますます高まるばかりであった。


 その夜、頼朝はなかなか寝つくことができず、しとねのうちで何度も寝返りを打った。

 やがてかれは、眠るのをあきらめた。

 枕元に着座し、経文を読んで、心を鎮めた。

 今年、齢四十三。

 その心は二十代のころの、暗い春の水面みなもの上をさまよっている。





 今は昔、承安年間……


 頼朝はその頃、伊豆国の伊東の地に、流人として暮らしていた。

 当時その地を治めていたのは伊東祐親すけちかという豪族で、罪人頼朝の世話主となっていた。


 その祐親が、大番役の勤めのために伊豆を離れ、上京した。

 任期は三年である。

 頼朝は秘密のうちに、祐親の娘、八重やえ姫のもとに通い、子をなした。


 ――於政と出逢う、数年前の話である。


「名は、千鶴せんづる丸にしよう」

「千鶴?」

「鶴は千年の寿命をもつという。……この子には、千年、幸せに生きてほしいのだ」

「千鶴……よい名前です」

 恋人たちは赤子を胸に抱き、寄りそいあった。

 どこからともなく漂ってくる甘やかな香りが、親子三人をやわらかに包んでいるようだった。


 千鶴丸が三歳の春、祐親が、任期を終えて都から戻ってきた。

 世は、平家全盛の頃である。

 自分の留守中に、娘が罪人の子を生んだという事実を知るや、祐親はたちまち激怒、狂乱した。


「このこと、平家に知られたならば、わしは謀反むほんさえ疑われかねぬ。人の噂は恐ろしきものぞ。あの流人だけは、。相手が卑しい商人ばらや修行者ばらであったほうが、よっぽどマシであったわ」


 祐親は、江間えま小次郎近末ちかすえという男を新しい婿に選び、八重と無理やり妻合めあわせた。


 千鶴丸に対しても同様、厳しい処断をくだした。

 濛々もうもうと水煙をあげる滝壺の白い渦のなかに、初々しい山桜の花びらが幾枚も、幾枚も、吸い込まれてゆく。

 春のみどり織り成す、その冷たい水のなかへ、千鶴丸は幼い命を散らされた。


 この恐るべき顛末てんまつを、頼朝は藤九郎の口から突然に知らされた。

 息が止まった。

 天地が眩んだ。

 幸福を無理やりに奪われた激しい怒りと、胸をえぐる悔しさで、涙をとどめることができなかった。

 家族を守れなかったことへの無力感、祐親への憎しみ、自分へのとめどもない嫌悪、世をはかなむ気持ち、運命を恨む気持ち――それらを、ひとことで言えば、絶望――。


 藤九郎が止めるにも関わらず、頼朝は硬い柱にむかって、何度も何度も自分の頭を打ちつけた。

 額がかち割れ、目に、口に、生臭い血が流れ込んだ。

 そのまま転倒し、気を失った。

 衝撃があまりにも激しすぎた。

 その日より、頼朝は心神喪失状態に陥った。

 おおよそ八ヶ月のあいだ、鬱状態、無気力状態で、流人屋敷のうちに閉じこもっていた。


 蔀戸しとみどを閉ざした暗い板間で、毎日毎日、かれは心に復讐を描きつづけた。

 だが、それは頭のなかだけのこと、けして行動に結びつかなかった。

 全身にまったく力が入らない。

 体がひどく重い。

 なにをする気も、起こらない。

 ただ、眠りたい……。

 消えてしまいたい……消え入ってしまいたい……。

 それは生きながら、死んでいるに等しかった。


 実際、たとえ心身が健康であったとしても、一介の孤独な流人が、強兵に取りまかれた祐親の寝所まで近づくことは不可能であったろう。

 また祐親のほうでも、頼朝の屋敷に宿直とのいの侍を立て、頼朝が凶器を入手できないよう常に気を配っていた。


 九月にもなって、どう思ったものか、祐親の方が頼朝の殺害を心に決めた。

 都には「病死」と報告すればよい。

 腹中に毒虫を飼っておく必要はない……そう判断した。


 子息の伊東九郎は、はじめから妹の八重と頼朝に同情的で、父の腹のうちを聞かされるや、たちまち知らせてくれた。

 藤九郎と盛綱の手引きのもと、頼朝は伊東の地を逃げ出し、雑色の鬼武おにたけひとりに支えられながら山中を逃げ惑った。


 かれは伊豆山いずさんに辿りついた。

 そこは罪人が逃げこむことのできる、最後の場所だった。

 頼朝の罪人としての預かり主は、伊豆の国守である源頼政、仲綱親子であり、伊東祐親はその下にいる。

 伊豆一国のうちであれば、朝廷に対しても、問題はなかった。


 すでに景義が、伊豆山側に話をつけておいてくれていた。

 伊豆山権現の別当は、広い度量をもって頼朝を受け入れてくれた。

 神域を守護する僧兵の数も多く、伊東の凶手もそこまでは及ばなかった。


 景義は、頼朝にまみえるや、ひれ伏し、男泣きに泣いた。

「わしが悪うござりました、わしがもっと気をつけておりますればよかったものを。わしが悪うござりました……」


 もはや誰が泣いたとて、こぼれてしまったうつわの水は、元には戻らなかった。

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