第52話 頼朝、烏帽子親を決めること

 頼朝の顔には、先ほどまでの恐ろしい悩乱の影はなかった。

 そこには千鶴を包みこむような、慈父の表情が浮かんでいた。


「そなたを御家人に取り立てる。よもや異存はあるまいな、千鶴丸」

「ありがとうございますっ」

 千鶴は地面に前髪をつけた。

 嬉しい驚きと戸惑いで、頭のなかは真っ白だった。


烏帽子親えぼしおやはどうするか……」

 烏帽子親とは、元服式において烏帽子をかぶせる役柄で、一生涯、親代わりの後見人となってくれる。


「私が務めてやってもよいのだが……」

 そう言った頼朝の瞳に、一瞬、悲哀の色がよぎり去った。

「……いや、私にその資格はないな。それよりも名案がある」

 と、頼朝はひとりの御家人を名指した。


小笠原おがさわら殿。和殿、烏帽子親となってやれ」

「ハハッ」

 精悍な顔つき体つきの武人が、実に品のよい身ぶりで頭をさげた。

 小笠原長清ながきよ――齢二十八。


「後見人は多いほうがよい。この小笠原長清は、源家の一族。そしてまた、清和源氏流弓馬術礼法の正統なる後継者。これほど確かな後見人はいまい。この者がそなたの烏帽子親となってくれる」

「ありがとうございます」


「清近。そなたは今後も引きつづき、親代わりとして、この千鶴丸をしっかりと養育せよ」

「ハハッ」


「千鶴丸よ。長清と清近、ふたりともに弓馬の達人である。人物もしっかりとしている。このふたりをまさしく父と思い、よき見本として、弓馬術はもとより礼儀作法をもしっかりと学び、立派な御家人となるのだぞ。長清、清近、ふたりに共通の一字を受け継ぎ、これよりは『秀清』と名乗るがよい」

「はいッ」

 千鶴は頬を上気させ、深々と一礼した。


 長清と清近……ふたりの武人は互いに会釈し、まなざしを交わし合った。

 両人はすでに、互いに顔見知りである。

 小笠原長清の父は信濃守しなののかみで、長清もゆくゆくは信濃国を統治することになる。

 一方の藤沢清近は、信濃国の精神的支柱、諏訪大社の血族である。


 頼朝がこの元服式に、いまひとつの意味を込めているのは明らかだった。

「これからの信濃国は、鎌倉の支配のもと、このふたりが統率する二大勢力の強い結びつきによって治めてゆく」という政治的意図を、暗に本人たちと御家人たちとに示したのである。

 藤九郎は舌を巻き、いつものことながら、驚嘆を隠せなかった。


 ふたりに共通の一字に瞬時に気づき、千鶴の烏帽子親を決めた。

 と同時に、これからの鎌倉と信濃との将来までをも、人々の前に描いて見せた。

 頼朝は歌を詠むことはそれほどなかったが、まさに歌でもひねるかのように、常時、このような素晴らしい閃きを幕府経営のなかに発揮した。

 それはかれが毎日のように人々の訴訟に耳を傾け、真摯しんしに考え抜いて裁きを与えるうちに、自然と開花させた才能なのであろう。


(……あの流人の殿が、このような花を眠らせておいでになられたとは……)


 流人時代を親しく共にした藤九郎だけに、その感慨は、なおいっそう深かった。

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