第51話 千鶴、御前に召されること




   四



 前日より頼朝は、奥州船迫ふなはざまの駅屋を宿館としていた。


 早朝の光が斜めに差しこむ広庭には、真竹が秋風にささめき、老松おいまつがくろぐろと身をくねらせている。

 なよやかに枝垂しだれたはぎが、まるで滝の水のように、紫色の花をあざやかに散らしている。


 花の陰のどこかしらに、りんと――夜を惜しんでか、松虫が喉をふるわせている。

 しばらくぶりに頼朝は、殺伐とした空気から解放されるような、すがすがしい気分を覚えた。


(ひとつ歌でもひねりたいところだが……。ふむ、西行法師は、感動すればおのずと三十一字がひらめくと言っていた……。私もそう行きたいところだ。『わずか三十一字ばかり』、とな……)


「松虫の……」

 と言って、眉間に皺をよせたが、それより先になかなか進まない。


 頭を悩ませているうちに、清近と千鶴が早くも到着した。

 ――いさぎよく、頼朝は歌をあきらめた。


「そなたが制多伽童子か」

 御座おましに戻った頼朝は、庭に平伏した千鶴を、興味深げに眺めまわした。

「どれ、顔をあげよ。……なるほど、凛々しい目元をしておるな。先の戦では出色の働きを見せたとのこと、すでに聞き及んでおる。よわいは?」

「ハッ、十三にてございまする」

「して、名はなんと申す?」


「千鶴丸と申します」

「――なに、千鶴丸?」


 今初めてその名を知った頼朝は、ぎょっとして、全身の動きを失った。

 なにか重たい衝撃を受けたようであった。

 かれは、まじまじと千鶴の顔を見つめて後、両のまなこをきつくとざした。

 湧き起こる幻想に苦しめられるかのように、頬はひきつり、ひたいには悩乱の影が差している。

 藤九郎と盛綱が、いわくありげな表情で、ちらりと目配せを交わした。


 この異様な空気に千鶴は、自分がなにか間違ったことをしでかしたのではないかと怖れた。

(なにか雲行きが悪くなるようなら、二品様にこの手紙をさしあげるのじゃ)

 出立前、景義から与えられた指図が、千鶴の耳に甦った。


「これを」

 千鶴はたもとからふみを取り出し、おずおずと両手で差し出した。


 近習が取り次いだその文に、頼朝は大庭平太の名を見た。

「景義から?」

 頼朝は文を広げ、時をかけて、丁寧に目を通した。

 そして、元の形に折り畳んだ。


「水を持て」

 差し出された椀を一息に飲み干すや、頼朝は立ちあがって庭に下り、千鶴丸の正面にかがみこむと、そのやわらな頬をやさしく両手で包みこんだ。

 頼朝は、その場にいた御家人たちのほとんどが初めて耳にする、驚愕の事実を口にした。


「千鶴丸……。私がまだ伊豆にいた頃、私にも『千鶴丸』という子がいた。私の初めての子だった。まるで冥土から蘇って、ふたたび巡りあえたかのような……」


 御家人たちがどよめくなか……事情を知悉している藤九郎と盛綱だけは、哀しげにおもを伏せた。


「……しかし私の千鶴丸は、確かに死んでしまったのだ。あれはまだ、三歳の春だった。かわいそうな死に方をさせた」


 頼朝の瞳に光が揺れていることに、千鶴は気づいた。

 その光が流れ落ちる前に、頼朝はさりげなく指の腹でまぶたを押さえ、ぬぐい去った。


「昔の話は、やめておこう。そなた、父は? 名のある者か」

「はい、わが父は、山城やましろ権守ごんのかみ、河村秀高と申します」

「河村千鶴丸か……。河村の子が、藤沢の麾下にいるのは、どういうわけか」


 千鶴の背後に、折り目正しく控えていた清近は、きびきびとした調子で答えた。


「ハッ、治承合戦にてこの者の兄、河村三郎義秀が誅戮ちゅうりくされてより後、千鶴丸は母である鎌倉府女官、京極局のもとに身を寄せておりました。

 それを二品様のお役に立てようと私が引き取り、今に至るまで、丹精込めて弓馬の術を仕込んで参った次第にございまする」


「そうであったか……」

 頼朝はなるだけ感傷を遠ざけ、冷静に考えをめぐらせた。

「この千鶴丸、本来は兄の罪に連座してもおかしくないところではある。しかしながら、この者はそれを補って余りある、出色の働きをしてくれた。おかげで、わが軍の士気は高まっている」


 頼朝はゆっくりと、その場にいた御家人たちを見まわした。

「元服をとりおこなおう」


 ざわめきが広がった。

 異を唱える者はいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る