第49話 京極局、お百度を踏むこと




   三



 ――鎌倉御所、北の対。


 しん、と静まり返った、つねならぬ静寂が恐ろしいほどである。


「心配でしょう?」

 御台所みだいどころ――於政おまんに声をかけられた京極局きょうごくのつぼねは、ゆっくりと頭をかたむけた。


「御台所さまも。二品さまのこと、さぞかしご心配であられましょう」

 美しい唐織物からおりものをまとった於政は、長くつややかな黒髪を女房頭の……冷泉局れんぜいのつぼね……にくしけずらせていたが、やがて、つめたく冴えわたった鏡面に布をかけた。


 御座おましから立ちあがると、かたわらに寄り添うようにして、京極の手をとった。

「わたしは千鶴丸のことを話しているのです」


 京極は、どんな顔をしてよいやらわからぬように戸惑い、うつむいた。

 於政は今年、三十三になる。

 京極は、それより少し若い。


「都で御所勤めをされたあなたが、この御所に来てくれて、右も左もわからぬわたしたちはどれほど助けられたことか。公式の場での衣服のしつらえ方にはじまり、都のお客人をお招きした時の寝殿のしつらえ、礼儀作法に至るまで、いろいろと教えてもらいましたね。だからわたしは、あなたに助けられた恩をお返ししたいと、いつも思っているのですよ」


 恐縮する京極に、於政はいっそう身を近づけた。

「男たちのいない今だから、わたしの気持ちを明かしましょう」

 と、於政は声をひそめ、京極の耳元に口を寄せた。


「……千鶴が女児なら、どれだけ楽だったことでしょう。わたしもあなたも、いくつもの不幸を見てきました。鎌倉に仇なした縁者をもつ男児は、たとえ幼くとも……それが生まれたばかりの赤子といえども、罪を許されません。かれらを救おうと思って救えなかった悔しい思い、つらい思い、惨めな気持ちを、わたしは今でも忘れてはおりませぬ」


 於政のささやき声が、怖いほどに凄みを帯びた。

 それは木曽義仲の子、義高のことであった。

 義経の赤子のことであった。

 於政の心をこめた助命嘆願も、鎌倉の裁断をくつがえすことはできなかった。


 京極もそれらの悲劇を間近でつぶさに見てきているから、悔しい気持ちは於政と同じ、いや、それ以上である。

 それらの事件を思い、わが子、千鶴丸のことを顧みれば、返す返すもッとせずにはいられない。

 京極は生唾を呑み込み、ひりつく喉をふるわせた。

「御台所さまが慈悲ぶかいお心で千鶴丸をかくまってくださったので、あれは生き延びることができました」


「河村義秀が斬罪に処せられたことを思えば、千鶴丸の身も、危険な状況でしたもの。あの子は御所の女たちがみんなして匿い、時には卑賤の童だと言いつくろい、心をかけて育ててきました。わたしたち全員の子も同然。わたしたちの希望です。大庭殿、藤沢殿が、きっとなんとかしてくれるでしょう。わたしたちはわたしたちにできることをしましょう」


「できることとは?」

「お百度を踏むのです」



 ――翌日、於政は女官たちを集め、鶴岡八幡宮で百度参りを行った。


 鳥居と拝殿のあいだを百往復し、百度の参拝祈願を行うのである。

 京極のみならず他の女官たちも、子供が、夫が、父親が、兄弟が……多くの縁者が奥州に出征していた。

 彼女らは鎌倉のために、出征した者たちのために、繰り返し繰り返しお百度を踏み、汗もしとどになって祈りつづけた。


(どうぞ千鶴丸がため、わが命お削りください……)


 愛するわが子を生み出すためならば、母親はわが身の苦しみも厭わない。

 わが身苦しむことで、千鶴がもう一度、つつがなく目の前に帰ってきてくれるならば……。

 切なる心で、京極はわが子の無事を祈りつづけた。





※ 冷泉局れんぜいのつぼね …… 読みは、「れいぜん」ではなく、「れんぜい」で正しい。於政の侍女頭、れん。

 ふたりは御所中では「御台さま」「冷泉どの」などと呼び合っているが、あいかわらずの幼友達で、仲が良い。

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