第48話 清近、怒りを燃やすこと

「生きておったか……」

 鎧姿の清近が、ため息も深く、呟いた。


 千鶴は、敵のものか自分のものかもわからぬ血と泥にまみれ、大鎧のさねもぼろぼろである。

 疲馬の差し縄を引いて、ずっしりと重たい体を引きずるようにして、つまづきながら歩いてくる。

 その後ろに守護神の如くに、葛羅丸がつきそっている。


 前方で自分を見つめているのが、師の清近だとわかった瞬間、千鶴は体を凍りつかせた。

 ふたりはしばらくのあいだ、なんとも言われぬ表情で見つめあっていたが、やがて先に、清近が口を開いた。


「私が怒っているのが、わかるか」

「はい」

 と、かすれ声。


「誰にそそのかされたかは知らぬが、軍令違反は重罪である。抜け駆けなど、卑怯千万。それがわからなかったか」

「……」


「たったひとりが軍規を乱すことによって、全軍が総崩れになることもある。私は以前、お前が屋敷から逃げ出した時、そう教えさとさなかったか?」

「………」

「どうした、答えぬか。答えられぬのか。悪いと知りつつやったか」


 千鶴はようやくのことで、口を開いた。

「悪いことと……悪いと知りつつやりました。ある人に、清近先生の陣は後方なので手柄を立てることはできぬと言われました。それで……」


 清近は突然、右手めてゆがけを引きちぎり、千鶴の眼前に大きな拳を突き出した。

 血管が太く脈打つその拳は、烈火のごとき怒りを帯びて、小刻みに震えていた。


「よいか。本来ならば私はこの拳で、おまえを殴り倒すところだ。しかし今の私にはそれができぬ。何故だかわかるか? それを阿武隈あぶくま川に頭を突っ込んで、とくと考えよ。

 私がこの行軍中、なにも考えておらぬと思ったか。ここぞというところで、そなたに花道を作ってやろうと、心を砕いておった。その心がわからなかったか」


 千鶴の瞳に、戦場で流しつくしたはずの涙が、ふたたび溢れ出した。

 とりかえしのつかぬことをしてしまったという思い……本当に頼るべきかけがえのない人を、自分が裏切ってしまったのだということを、ようやくのこと、この時悟った。


「申し訳ござりませぬッ」

 千鶴は泥土に身を投げ出して嗚咽おえつした。

 清近は鬼のような形相を、ぴくりとも動かさなかった。

 もしそこに有常が駆けつけてこなければ、いつまでも睨みつづけていたことだろう。


 馬から飛び降りた有常は、千鶴の背をかばうように抱いた。

「さ、千鶴。行軍が始まるぞ。兜を脱ぎな、苦しかろう」

 清近はそれ以上なにも言わず、その場を有常に任せ、軍務に戻った。



 助け起こされ、ようやくのこと、うつむきながら歩きはじめた千鶴に、有常は言った。

「清近先生はすぐに千鶴を追って、前線に出てね。戦のあいだじゅう必死になって、千鶴を捜し回っていたんだよ」


 清近の鎧の、傷つき、汚れほつれたありさまが、千鶴の眼裏まなうらに甦った。

 またもやどうしようもなく、千鶴は嗚咽をもらした。



 今や日輪は、天の中央に、白くおおいかぶさるように燃えていた。

 緑ける山なみの隘路あいろを、兵たちは汗まみれになり、暑さに喘ぎながら、重たい足を運んでゆく。


 あちらこちらに人馬の死骸むくろがうち伏し、耐え難いほどの腐臭が、するどく鼻を打つ。

 とても現実とは思われぬ悪夢の光景に目をそむけながら、自分たちがどこへむかっているのかもわからぬまま、軍勢は見知らぬ異郷の地を進んでゆくのであった。

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