第36話 千鶴、ある夏の一日
二
――季節は飛ぶように過ぎ、翌夏、
「近頃、千鶴も落ち着いてきたな」
出仕の仕度をしながら、清近は妻に言った。
美奈瀬は手伝いながら、嬉しそうにうなずいた。
「ええ、涙も見せなくなって。ここでの暮らしに慣れてきたのでしょう」
「……だといいが」
「あなたも張り合いがなくて、おさみしいでしょう?」
清近は苦笑した。
「馬鹿を言え。また、いつ飛び出すやもしれぬ。油断がならぬ」
「ふふ。なにか、いいことがあったらしくって……。有頂天になっておりましたよ」
「いいこと?」
「ええ、教えてくれませんでしたけれど……このあいだ、甘縄姫が遊びに来ていた時にね」
「なんだ?」
「甘縄姫と、ふたりだけの秘密なんですって」
ひさしぶりに稽古が休みになったので、千鶴はひとり、なにをするでもなく愛馬を引き連れ、浜に出てみた。
居心地のよさそうな松の木陰を見つけると、馬と一緒に腰をおろした。
袋のなかをごそごそと探って、取り出したのは、漆の小箱である。
胸をどきつかせながら、そっと蓋を開けば、えもいわれぬ清楚な香りが立ちあがり、なかから取り出した宝物は……美しい黄金造りの鷲羽根であった。
光に高々とかざしてみれば、羽根の一筋一筋の細工にこまかな光が散り、つやつやときらめいている。
千鶴がうっとり見惚れていると、
千鶴は慌てて「コラッ」と、鼻面を叩いた。
馬は、しゅんとして、すぐに顔を引いた。
その顔が、なんだかとても悲しそうだった。
「なんだ、黄金雲。そんなにしょげるなよ。お前は、千鶴のたったひとりの郎党なんだから……」
千鶴はひとり笑って、愛馬の首を、ぐいと抱きしめた。
黄金雲は、一緒に育ってきた大切な友だった。
……千の鶴を乗せて堂々と空をゆく、黄金色の雲……千鶴はそんな空想をしながら名前をつけたのである。
海は晴れわたり、畳みかける白波も穏やかだった。
潮風に揺られて咲く、あざやかな朱色の
蔦をからめる、紫の昼顔の花――
右手には鎌倉山がそびえ、左手の海のむこうに、三浦半島の山々が低く、濃い緑色に連なっている。
目の前の水平線は遮るものなく真っ直ぐで、波打際にはたくさんの
ニャアニャアと鳴き交わしながら、おいしい餌でも見つけたのか、みんなで集まって、けたたましくケンカをはじめた。
「坊主」
「あ、平次殿」
見あげてみれば、
派手な色の
実正は興味津々、千鶴の手にある黄金の羽根をのぞきこんだ。
「いいもん持ってんなぁ」
千鶴は見せようか、隠そうか、迷うようなそぶりをした。
「甘縄の御前さまが、くださったのです。『大きな鷲のように、自由に天を駆けることのできるつわものになれますように』って」
「背中にハネでも生えてくるんか?」
実正の馬鹿げた冗談口に、千鶴はすこし怒ったように口をすぼめた。
「そんなわけないでしょ……たとえ話だよ」
実正は苦笑して、「そうかそうか」と頭を掻いた。
「見せてくれよ」
「うん。大事にしてよ」
「わかってるって」
千鶴が羽根を渡すと、実正は「綺麗だなぁ」と感心したように言って、縦にしたり横にしたり裏返したり、何度も繰り返し繰り返し、いつまでも見入っている。
ついにたまらなくなって、千鶴は聞いた。
「欲しくなったの?」
「ああ、欲しい。俺にくれないか?」
「ダメだよ。宝物なんだ」
「ちぇ……」
実正は渋々といった感じで、羽根を千鶴に返すと、太い両腕を夏空に突きあげて、あああ、と大あくびをかいた。
「おい、泳ごうや」
「え……」
「なんだ泳いだことないのか?」
「ううん、あるよ。ふところ島のほうで……」
「じゃ、脱げ脱げ。おじさんと一緒じゃ、嫌か」
「そんなことないけど……平次殿、泳げるの?」
「たりめぇよ。俺は海の男なんだぜ」
「そうなんだ……」
「よっしゃ、じゃ、行こうぜ。暑くて
実正は無造作に着物を脱ぎ捨てると、素っ裸になって砂浜に駆け出した。
「しょうがないなぁ……」
千鶴も小袖を脱ぎ捨てて、実正の後を追った。
足裏が焼けるように熱くて、ひと所に
急いで、冷たい波に飛び込んだ。
はしゃぎながら、あらけない奇声をあげた実正に、千鶴は言った。
「平次殿は大人なのに、童みたいだね」
「お前は童なのに、大人みたいだぞ」
ふふと笑った千鶴に、実正は頭から波を浴びせかけた。
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