第34話 千鶴と景兼、八幡宮を歩くこと

 ――翌朝、千鶴が目を覚ますと、一緒に寝ていたはずの母の姿がなかった。


 朝早くに出仕したのであろう。

 千鶴は香りよく焚きしめられた寝具とのいものに顔をうずめて、もう一度、眠ってしまった。


 昼ごろになって、母に仕える雑仕女が来た。

 女は千鶴を起すと、無理やり女童めのわらわの服に女装させ、やわらかな布を頭にかずかせた。


 実正さねまさが付き添って、御所の外で待っていた景兼かげかぬに、千鶴を引き渡した。

「平次殿……ありがとうございます」

「よいよい。早くゆけ」

「はい」


 急ぎ足で立ち去りつつ、景兼は声を低め、千鶴の耳に囁いた。

「よかった、千鶴、無事だったね。有常にいと待ち合わせてるんだ。行こう」

 景兼は、言いながら、ぎょっとした。

 千鶴が本当に、美しい少女のように見えたからだ。


(けっこう似合ってるな……)

 猫のように大きな目で見あげる千鶴に、景兼の頬が赤らんだ。

(いかんいかん、何を考えているんだか……)

 景兼はあわてて、千鶴の頭の布を引き下げて顔を見えなくすると、「行こう」と歩き出した。

 女童姿の千鶴は、景兼の後ろを、とことこついてくる。

 ふたりは鶴岡八幡宮へとむかった。



 境内では五重塔の作事が、着々と進んでいた。

 現場の周囲にはものものしく足場が組まれ、五層のうちの半ばまで組みあげられている。

 槌音つちおとが調子よく、トンテン、トンテンと響いている。


 木の葉形ののこぎり手斧ちょうな槍鉋やりがんなといった奇妙な形の道具をふるって、片肌脱いだ大工や人足たちが、時に声を合わせて歌ったり、軽妙な言い争いをしたりして、やかましく立ち働いている様子も面白く、ふたりはしばらくのあいだそれを見物していた。


 折りしも、御家人の親子づれが仲むつまじげに寄りそいながら、ふたりの目の前を通りすぎた。

 参拝に訪れたのであろう。


 子供は、千鶴と同じ年頃であろうか。

 大声をあげてはしゃぐその童を、父親と母親がたしなめている。

 叱り、叱られつつも、親子の顔は幸福の輝きに満ち満ちているようで――

 千鶴は吸い込まれるように、家族の一挙手一投足を見つめていた。


 首をきょろきょろさせ、景兼が有常を探していると、折りもよく背後から声がかかった。

「景兼」


 ふり返って、思わず、ぎょっとした。

 有常兄ではない。

 ――長江義景翁である――

 取り巻きの者たちを従えている。


「長江殿、これは、ごきげん麗しう」

 景兼は愛想笑いで挨拶しながら、さりげなく女装の千鶴を後ろに隠した。

 こそこそとした常ならぬ様子が、明らかに顔に出てしまっている。

 義景の猛禽もうきんの目玉は、それを見逃さなかった。


「その女童は?」

「親戚の子です。若宮八幡宮にどうしても参詣したいというものですから、連れて参ったのです」

「ほう、親戚? はて……」

「ええと、母方の、遠い親戚です。ふところ島の……。なにぶんにも田舎者で、恥ずかしがっております」

 千鶴は頭の布を引き寄せて、わざとなよなよしたそぶりで、景兼の背に隠れた。


 途端に義景は、クワッと頭に血を昇らせた。

「景兼、貴様、女童なんぞ連れ回してふらふら遊び歩くなんぞ、千年も万年も早いわ。そんな暇があったら、わしのようにしっかりと武芸を磨いておかんかッ。

 よいか。今の世は、明日もわからぬ世のなかじゃ。罪人が次の日には、御家人になっておる。今日の御家人も、明日には罪人となって滅びるかもわからぬ。いや、滅びるッ。よくよく心しておくがよいぞ」


 脅しのこもった恐ろしげな言葉に、景兼はひたすら平身低頭するのみであった。

 そのまま義景が立ち去ると、景兼の全身から、安堵の汗がどっと流れ出た。

「危うかった……」

 変な勘違いをしてくれて助かった……ためいきがこぼれ出た。


 千鶴のほうは、わが身に危険が及んだことも思わぬ様子である。

 かれは、先ほどの親子連れの姿を探したが、もはやどこにも見つからなかった。


 ……その代わり、見知った顔を見つけ出した。


 色も紋様も美しい水干すいかん姿の若者が、はにかむような親しげな笑みを浮かべて、並木の参道を歩いてきたのである。

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