第33話 千鶴、母の話を聞くこと

 夜もふけると、母は千鶴を目の前に座らせ、声を押し殺し、教え諭した。


「大庭殿も、藤沢殿も、みなさまが、おまえの身を立てようと、命がけで力を尽してくださっているのです。それを忘れてはなりません。

 よいですか、千鶴丸。明日は必ず、藤沢殿のところへ戻るのですよ。目をまっすぐに見て一心に謝れば、藤沢殿は必ず許してくださります」


 母を相手に、千鶴は何度も謝る練習をした。


 それが終ると、並んで神棚に手をあわせ、これまでの命の無事を感謝し、これからの千鶴の成長を祈った。

 神棚にはやはり、有常の流鏑馬の的札が祀られている。



 しとねのうち、寝物語に、千鶴は父の話を乞うた。

 あやめもつかぬ夜のぬくもりのなかに、ひそやかな母の声が伝わってくる。

 闇が深まるにつれて高まる虫のが、母子のひそひそ話を、かき消すように守ってくれた。


 キョウッ――とひとこえ高く、夜のどこかで、鳥が啼いた。


「なんの声……」

「さあ、……鶴かしら……」

「つる?」

「鶴は、夜、ねむらないというから……」

「ふうん」


 京極は体を横にして、千鶴のほうを向いた。

「……鶴はね、眠らずに、ずっとわが子を守っているのよ」


 千鶴は、想像した。

 この暗闇のどこかに白い鶴が、やわらな羽毛をひろげ、ひな鳥をやすらわせているのだろうか……


 母が、また話しはじめた。


「……あなたのお父上、河村秀高殿は、波多野の一族です。京の都の摂関せっかん家に仕える、立派なさぶらいでした。和歌うたにも武芸にも秀でておいででした。関白様がお隠れになられた後、長年仕えた都を離れ、河村にお戻りになられました。


 私は宮中に女官勤めをしておりましたが、ある時、父に従って相模さがみの松田に下りました。松田の地には都人が集い、さまざまに風雅の楽しびを催しております。その松田の御亭で、殿に見初められたのです。殿はその頃にはもう、六十か七十のおじいさまでしたけれど……。


 あなたが生まれてすぐ、残念なことに、殿はお亡くなりになられました。それでそののち、河村家はあなたの腹違いの兄上、今は亡き三郎義秀殿が家督をお継ぎになられたのです」


 ……京極もまた、義秀が生きていることを、知らない。


「三郎兄上……、あまりよく覚えておりませぬ」

「そうでしょうね、あなたはまだ、たったの四つでしたもの」

 母は、子のやわらかな面輪おもわをなぞりながら、憐れむように両手でつつみこんだ。


 するとその時、千鶴の体全体に、不思議な感覚が蘇った。

 大きくてあたたかな男の影が、自分の体をふわりと抱きあげたような、そんな感触に包まれたのである。

 その大きな影が兄のものなのか父のものなのか、それとも別の誰かなのかは、わからない。


「治承の大戦で河村が滅びて後、河村家の整理をしてくださったのが、大庭殿でした。大庭殿は河村の人々を手厚く保護し、ひとりひとりに親身になって、新たなの先を探してくださりました。私が今、御所でお勤めができ、何不自由なく暮らしておられるのも、大庭殿のお取り成しがあったればこそのこと」


「大庭殿は、大好きです」

「そう、ならば、よかった」

 京極は、ふっと安堵のため息をついた。


 ……話しているうちに、千鶴はいつのまにやら、眠ってしまった。

 母は、わが子の額髪を撫でながら、なお、眠らずにいた。

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