第32話 女官たち、驚くこと

 菊花咲きあふるる壷庭を、うっとりと眺めおろしながら、寝殿から北の対へ、あでやかな女官たちが、御所の渡殿わたどのを渡ってゆく。


 菊の華の列は、色も種類もさまざま。

 夜露にしっとりと花びらをしめらせ、星の光を散りばめながら咲き誇っている。

 夜気までもがかぐわしく、爽やかに感じられるようである。


 その花々のむこうで、風もないのに笹の茂みがざわざわ揺れたものだから、女官たちは驚きに息を呑み、立ちすくんだ。

物怪もののけかや――)


 途端に黒い影が伸びあがり、ひょっこりとちいさな姿が飛んで出た。


「アッ、千鶴丸――」

 女官のひとり……京極局きょうごくのつぼねは、ちいさく叫んで、慌てる心をどうにか落ち着かせながら、息子の体を袖で覆い隠し、殿上に引きあげた。

 京極の顔が真っ青に見えるのは、星明りのためだけではない。


「また逃げ出してきたのかえ」

 千鶴はかわいらしい顔で、こくりとうなずき、母のふところに飛びこんだ。


「母上。すごいんだよ。裏の小屋に忍びこんでみたら、千鶴よりももっとでっかいわしが、ぐわぁっって、羽根を広げたんだ。びっくりして腰が抜けちゃった」


 裏の鳥舎では珍しい熊鷹くまたかを飼っているらしいが、そんなことはどうでもよい。

 薄紙よりもさらに顔を白くして、京極局は息も止めよとばかりに、わが子の口を塞いだ。

ーーッ、静かにしておくれ。お願いだから」


 めまいがして今にも気を失いそうになりながら、母は愁訴した。

「殿方や男衆に見つかれば、命はないのだと、いつも言っているでしょう? なぜお前はわからない」


 厳しく叱られつつも千鶴は、耳にかかるくすぐったい息と、美服に焚きしめられた心地よい香りのために、うっとりしてしまった。


「すぐに藤沢殿に知らせましょう」

 と、腹心の雑仕女ぞうしめがささやいた。

「頼みます」

 と、京極はうなずいた。

 他の女官たちも、みな特殊な事情を心得ていて、千鶴をかくまうのを助けてくれた。


 ……千鶴を自分のつぼねに連れ帰ると、母はようやく安堵のため息をもらした。

 灯りのもとで見れば、千鶴は体じゅう、土まみれ、ほこりまみれ。

 築地塀を乗り越え、床下を這って忍びこんできたのである。


「まあ、まあ……」

 と呆れながら、母は、背中から大きな蜘蛛の巣をはぎとってやった。

「お腹はすいておるかえ」

 と、漆箱のなかから菓子を出してやると、千鶴は貪るように食べた。


 幼くして人目をはばかる、流浪の身の上……局にはわが子が不憫ふびんでならなかった。

 けれども思いやりすぎて甘やかせば、将来のためによくないことは充々わかっている。

 ――母の心の苦しみは深い。


(せめて一晩だけ、……ええ、一晩だけですとも。ともにいてやりましょう)


 気持ちが落ち着いてくると、ほとばしる情愛を抑え切れぬ様子で、愛息の手足をとり、爪を切ってやったり、髪を梳いて稚児輪ちごわに結ってやったり、細々こまごまと世話を焼いた。

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