第四章 夜の鶴 (よるのつる)
第31話 千鶴丸、逃げ出すこと
第三部 救 済 編
第四章 夜 の 鶴
一
その秋のことである。
「
清近は屋敷中をさがしまわったが、千鶴の姿はとうとう見当たらない。
「四郎丸、ぬし、千鶴を見たか」
「いいえ、父上」
普段から千鶴に弟のようになついている四郎丸は、きょとんとした顔つきになった。
「でも、
と、幼いながらも実に賢く助言した。
黄金雲は、千鶴の愛馬である。
……となれば、そうそう遠くへは行っておらぬはずである。
「わたし、見て来ます」
美奈瀬は屋敷を飛び出し、海のほうに駆けて行った。
いつもながら活動的な女主人を、
千鶴は今年、数え十二になる。
無性に淋しくなると、星月夜の浜に出ては、ひとりぼんやり海を見つめていることが多かった。
静かにあやなす波の音を聞きながら、永劫の世界から降りそそぐ星の光を見つめていると、なにもかもを忘れてしまえるのであろう。
なにぶんにも、特殊な事情を抱えた少年である。
(この海が、あの子の胸の内を聞き、受け入れ、なぐさめてくれている――)
美奈瀬は実の母親のように、切ない気持ちで小童を捜したが、はたして、その浜辺にも姿は見えなかった。
「どうだ」
「いえ、見つかりませんでした……」
「また逃げ出しおったか」
清近は、あきれ返って、天井の
ぎろりと勇ましいその目玉が、吸いこまれるように神棚に惹きつけられた。
そこにはいびつな、長方形の板が
先だっての
縁起物として、また武運長久の守り札として、鶴岡八幡宮から授かったものである。
「稽古で、また厳しく叱ったのですか?」
美奈瀬がすこしきつい目をして、夫に問いかけた。
清近は不機嫌に答えた。
「何度言ってもできない上に、ふてくされた態度をとるから、思わず手が出たまでのこと……」
「叱り方も考えてください。馬や犬の子ではありません。あの子は人一倍繊細な子なんです」
「……」
しっかり意見してくる妻に、清近は憮然とした。
かれとしては、自分が幼い頃に受けた鍛錬を繰り返しているにすぎない。
清近は武張った手で、ずれた烏帽子を押しあげた。
「外出する」
「どちらへ」
「由比屋敷だ」
「わたしも行きます」
「そなたは残っていろ。千鶴が帰ってくるやもしれぬ」
清近は海沿いに馬を飛ばし、景義の屋敷へと赴いた。
「父上、お猿さんをやって」
「よしよし」
ざっくばらんに襟元を広げ、くつろいでいた景義は、八つばかりになる由比姫に請われるままに物真似をはじめた。
両目をまんなかに寄せ、獣の目つきになると、猿そっくりの珍妙な動きをして、まわりの人々を笑いの
「次は、お馬さん」
「お、得意中の得意じゃ」
言うなり、景義は見事にいなないた。
笑い転げた由比姫を、なお笑わせようと、かさにかかって馬の鳴きまねをしているところへ、清近が庭に飛び込んできた。
「平太殿、千鶴は来ておりますかッ?」
景義は馬づらのまま、びっくりして顔をあげた。
「フヒ……千鶴? いや、来ておらぬぞ。……さては、また、逃げ出したか?」
清近は真顔を崩さない。
目だけでうなずいた。
「カァーッ、ならば、行く先はひとつしかあるまい。誰にも見つからぬことを祈るのみじゃ……いや、実正に知らせておくか……」
すぐに使いが走った。
ふたりはあらためて、渋い表情を見合わせた。
「まあ、おあがりなされ」
宝草が娘をつれて奥にさがると、景義は清近に酒をついでやった。
「お、菊酒ですか。ありがとうございます」
ふたりは軽く杯を合わせ、互いの長寿を祝いあった。
清近はそれを一息に飲み干した。
「千鶴は実に気ままで、手を焼きます」
「さもあらん」
「おかげで弓馬に上達が見えませぬ」
「まあ、焦らず、ゆっくりやろうぞ」
「……比べてはなりませんが、有常は真面目でした」
「歳のこともある。有常は父が亡くなった時、分別のつく年頃じゃった。それまで波多野の家で厳しく仕込まれてもいた。そこが大きな違いじゃ」
大きくため息をついた清近を見て、景義はにやりと笑った。
「おやおや、歴戦のつわものたる藤沢殿が、お手あげでござるか」
「なんのなんの、これからでござりますよ」
清近は憂さをふり払うように、両手で二度、三度、自分の頬を張った。
「すまぬのう、神次殿。もともとはわしが始めたことであるのに、和殿に苦労をかける」
「なに、苦労だなどとは思うておりませぬよ。私と美奈瀬は、進んであの子を預かったのです。有常のあの輝かしい姿を見た時、私は千鶴にも同じ思いをさせてやりたいと思いました」
「同感じゃ」
この屋敷の神棚にももちろんのこと、有常の流鏑馬の
景義は清近の杯に、瓶子を傾けた。
「とやかく言っても、千鶴はまだ、十二。『育てることは、待つこと』なり。われらがしっかりと腰を据え、見守ってやろうではないか」
(育てることは、待つことか……)
人生経験豊富な景義の言葉に、清近は感心してうなずいた。
妻に言われた言葉も思い合わせながら、清近は菊の花びら渦まく
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