第30話 有常、鶴岡八幡宮にぬかづくこと

 日が沈みゆく鶴岡の境内で、有常はひとり、ぼんやりとしていた。


 自分の身に起きたことが、いまだに信じられなかった。

 あまりにも大きな奇跡を前にして、感じやすい若者の心は圧倒されていた。


(まるで一生分の昼の光が、私に襲いかかってきたような日だった。私の上に、千の日輪が輝いていた……)


 天にも昇らんばかりの成功の喜び、ふるえるような感動、運命への畏怖――そうしたものがいっしょくたに嵐となって渦巻いて、この胸が今にも弾け飛びそうである。


(……今日という日があまりにも眩しすぎて、明日からはずっと夜なのではないか……)

 若い有常は、そんな馬鹿らしいことまで、真剣に考えた。



 うしろから、景義が杖を突きながら近づいてきて、有常の腰のあたりをひとつ、ぽんと叩いた。

「どうじゃ、今の気分は? 最高じゃろ」

「いまだに信じられない思いでいます。私の願いが叶ったのですから」


 すると景義は、ふぉふぉと笑って、こう言った。

願いが、叶ったのう」


(……みんなの……願い……?)

 それは有常にとっては、思いがけない言葉であった。

 景義の大きなを見て、かれは感極まった。


(私は自分ひとりのことしか考えてなかった……それなのに……そんな自分勝手な私なのに、その私のために、みなが私の成功を待ち望んでくれていたのだ……)


 有常のふるえる背中に、分厚い手のひらが置かれた。

「さて、境内の片付けも終わった。わしは先に帰るでのう。そなたもお礼参りがすんだら、はよう帰って来い。今夜は祝いのうたげぞ」

「はいっ」


 すでに馬場はならされ、昼間の喧騒が嘘のように、おごそかな静寂に包まれている。


 西の空には三日月が細く架かり、躑躅つつじの花がじゃれあうように重なり咲いて、やわらかな風にふるえている。

 風はすこし冷たかったが、有常の興奮はすこしも冷めやらなかった。


(私ひとりの力ではない。私ひとりの力では……)

 かれは石畳の上を、一歩、また一歩、ゆっくりと歩んでいった。


 幼くして命を散らした朋友のこと、そして父との別れのことを、かれは考えた。

 これから生まれてくる、新しい生命いのちのことを考えた。

 愛しいひとの、勇気をくれる笑顔を思った。


 八幡宮の社前まで来ると、神妙な面持ちでひざまずき、おごそかにぬかずいた。

 神仏に、亡き人々に、自分を支えてくれたすべての人々に……思いがあふれ、感謝の言葉を唱えずにはいられなかった。


「父上……」

 睫毛を伏せたその瞳から、光のしずくが、たくさんのちいさな三日月となってあふれ出た。

 花々の香りがやさしげに、慰めるように、喜びに疲れた青年の体を包みこむのだった。

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