第26話 有常、四月三日を迎えること




   三



 四月うづき三日。


 波多野次郎有常は、鶴岡八幡宮の境内に凛々りりしく立っていた。

 まるで憑き物が落ちたかのように、晴れ晴れしい顔をしていた。


 一年半前、かれは髪を剃り、薄墨の衣をまとって、西行とともにこの場所を訪れた。

 二度と、弓を持つことはないと思っていた。

 それが今、きらびやかな揚装束あげしょうぞくをまとい、鹿毛の行縢むかばきを腰に巻き、美々しい太刀をいている。

 ……かれ自身、まったく信じられない思いがした。


「今日を特別の日と考えず、いつもの稽古どおりやればよい。わかったな?」

 そう言う師の清近の顔は、いつにもまして厳しい。

「ハイ」

 と返事をした有常の顔にも、おのずと緊張が走った。


 そこへ景義と景兼の父子がやってきた。

 景義の顔は、じわに満ちている。

 その顔を見るなり、有常の心は、ほっと落ち着いた。


「乳は飲んだか」

「はい、いつもどおりに」

「よろしい」

 景義に「よろしい」と言われれば、本当にすべてがよろしいような気がしてくるのが不思議である。

 老翁は赤子をあやすように、有常の背中をぽくぽくと叩き、緊張を取り去ってくれた。


 袖まくりした実正がやってきて、腕に力瘤ちからこぶをつくって見せた。

「おい、触ってみろ、ご利益りやくあるぜ」

 腕の筋肉が玉となって、ぽろりと転げ落ちそうなほど大きく盛りあがっている。


 有常は驚きつつ、感心しつつ、ありったけの力をこめて、その腕を両手で掴みしめた。

「よっしゃァ」

 と実正は、得たり顔に叫んだ。「これで俺様の怪力は、お前のものだ。気合入れていけよ」


 景兼と千鶴丸が「有常兄、がんばってね」と、励ましの言葉をくれた。

 葛羅丸がのっそりと顔を出し、無言で有常にうなずきかけた。

 覆面の奥に輝く、力強い眼力が、有常の心を勇気づけてくれた。


 母の波多野尼は来ていない。

 息子の心を乱すまいと、姿を現さない。

 しかし母が今も、ふところ島の父の墓前で息子の成功を祈りつづけていることを、有常は知っている。


 そして、みお――

 有常は守り袋から、多羅葉の葉を取り出した。

 今頃、みおも、産の苦しみと戦っている。


 多羅葉の葉というのは、実に不思議だった。

 時が経つほどに、刻んだ文字が濃くなる。

 そして、ひとたび文字を刻んだ葉には、後からは文字が刻めなくなる。

 まるでその時の、その瞬間の思いだけを、純粋に閉じこめるかのよう――文字に込めた思いを、さらに深く、美しく、純化してくれるようだった。


 ――じらう、みを、ややこ

 みおの初々ういういしい文字が躍っている。

 有常は葉を額に押し当てた。

 必ずや、みおのもとに笑って帰るのだ。


 自分たち家族が、明るい光に包まれる光景を、かれは強く思い描いた。

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