第24話 波多野尼、不審の男に気づくこと
二
急な寒気を感じ、
門口に、ひとりの男が立っていた。
男は見るからにやつれ果て、衣服も擦り切れてぼろぼろ、顔も手も真っ黒である。
館の番人が不審の目を向け、追い払おうとしている。
波多野尼は最初、物乞いかと思った。
しかし、男の目のなかに宿る強い異様な光に、ふと心づいた。
「
「……
男は涙を流し、尼の足元に倒れこんだ。
男は、かつての波多野の郎党であった。
夕刻、有常が八幡社から戻った時には、盛益は湯殿で汚れを落とし、新しい着物と烏帽子を与えられていた。
有常も驚いた。
七年前の姿とは、まるで違う。
まだ三十代のはずだが、顔は見る影もなく老けこんで、上から灰をかぶせられたような白髪頭である。
奥の屋敷の目立たぬ部屋に呼んで、有常と波多野尼は男の話に耳をかたむけた。
「御前を尋ねて鎌倉のお屋敷に行ってみたのですが、もちろん御前はいらっしゃいませんで、追っ払われちまいました。大庭館へも行ってみましたが、同じでした。それでひょっとしたらと思って、ふところ島に来てみたら……ようやくお会いできたってわけです。まさか、御曹司がこちらにいらっしゃるとは、思ってもみませんでした」
「よく訪ねてくれた」
「いえ……」
と、盛益は烏帽子の頭を搔いて、何からどのように話そうか迷うようだったが、やがて重たげに口を開いた。
「治承四年のあの日――御曹司をお逃がしした後、われらは松田御亭でひと合戦やらかしましたが、多勢に無勢、すぐに制圧されちまいました。斬られた者は数知れず、生き残った者たちも、あれ以来、みなバラバラです。殿の後を追って、命を断った奴もおりました。頭を丸めて出家する奴もおりました。なんの目的もなく、
わずかに残った連中は波多野家の縁戚を頼ったり、流れ者になってその日その日をどうにか暮らしているのもいます。それが今度、御曹司が
長い沈黙があって、ようやく有常は言葉を口にした。
「……そうか、みな、苦労ばかりだな……すまぬ」
「
……それは、驚くような怒鳴り声だった。
有常も母尼も、目を見張った。
――思わず激してしまった感情を、盛益は、ぐっと呑み込んだ。
かれの胸の底には、思い通りにゆかぬ世のなかへの激しい
木碗の水を一口ふくみ、どうにか自分を落ち着かせた盛益は、包みをごそごそ探り、なかからちいさな木札を取り出した。
「これ、
「石清水さま?」
と、有常と母は顔を見あわせた。「石清水八幡宮? 京の?」
「へへ、そうです」
「いったいどうやって……」
「みんなのなけなしの財産を集めて、わしがひとっぱしり行って、いただいてきたんです」
「ひとっぱしり……」
相模の国と京とでは、行き帰りに、ひと月はかかる。
ひとっぱしりの距離ではない。
食事や寝床を得るのだって、大変だったろう。
大雨もあれば日照りもある。
盗賊に出くわす危険だってある。
……一口で感動というには足りもせぬ、ふるえるような心持ちで、有常はかつての郎党の皺ぶかいその顔を、まじまじとみつめた。
「なに、ひとっぱしりはひとっぱしりでござりますよ」
盛益は照れを隠すように、まったく苦労なぞひとつもなかったような顔をしてみせた。
「御曹司、あなたはわしらの希望です。こんなことが、わしらにさせてもらえる、精一杯のことです」
そう言ってから、盛益はあわてて自分の言葉を打ち消した。
「おっと、勘違いしてもらっては困ります。だからって、わしらの面倒をみてほしいってんじゃありません。わしらが御曹司の負担になっちゃいけねぇ。わしらのことなんか、どうでもいいんです。わしらは昔、先代様に、ずいぶんいい目、見させてもらいましたよ。その恩返しを今、したいと思ったんです」
「すまない。ありがとう。本番には必ず身につけさせてもらうよ」
急にまた、盛益は背を丸め、ぼろぼろと涙をこぼした。
「おやさしいなぁ、御曹司は……。御曹司、あなたは絶対に、罪人のままでいていい人じゃない。わしらは本当に、あなたの成功を信じています。そうじゃなきゃ、世のなか、ほんとに狂ってるってことになっちまう」
盛益は袖で顔を隠すようにして、汚れきった
「わしは本当に口べたで、これ以上長居すると、馬鹿なことを言っちまいそうです」
「今日は泊っていけばよい」
「そうなさい」
有常と波多野尼の心あたたかい言葉を聞いて、盛益は慌てて首をふった。
「こんないいお着物までいただいちまって、これ以上、ご迷惑おかけするわけにはいきません。御曹司のお邪魔をしちゃいけない」
「邪魔にはならないさ」
「いけません。どこに敵の目があるかわからねぇ。おかしな噂が立っちゃいけねぇ」
盛益は若白髪の下の暗い目を、追いつめられた獣のごとくすばやく左右に走らせると、頑なに、辞退の旨を繰り返した。
有常は感謝をこめ、盛益の手を握りしめた。
盛益も握った手に力をこめ、赤くなった目を懸命に見開き、幾度もうなずいた。
それに応えるように、有常も何度もうなずき返した。
かつての主従は熱い視線を交わしたまま、ついに無言のうちに別れるのだった。
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