第23話 毘沙璃、亡き霊を口寄せすること

 毘沙璃のまぶたはきつくとざされ、魂が冥闇くらやみの一点に集中してゆく。


 切迫した空気のなかで、巫女は、ふいに目をひらき、不安にゆらぐ有常の瞳をこうから見すえた。

 魂の底まで見通すような澄み切った瞳に、やわらかな慈愛の色が、ゆれながら浮かびあがってきた。


「おかわいそうに……次郎殿。あなたは今でも自分を厳しく責めつづけていらっしゃる。同じ立場にあった陽春丸殿が不幸な目に遇われたのに、なぜ自分だけが生き残ったのか。

 あなたの魂は重苦しい罪人の念を、みずから抱えこんでいて、それであなたは、しらずしらずのうち、自分で自分を罰しつづけている。誰にもその思いを打ち明けられなかったのでしょう? 大好きな大おじ上にさえ……」


 その瞬間、有常の心のなかで、固く結わえられていた数珠の太紐が、ぷっつりと断ち切れた。

 幾千の群玉むらたまがはじけ散り、くるの扉が大きな軋みをあげながら左右に退いた。


 ――しらずしらず、有常の頬には透明な涙がつたっていた。


 その頭を、そっと大事に、毘沙璃は自分の肩に抱き寄せた。

 老巫女の烏珠ぬばたまの瞳はまじろぎもせず、有常の背後にいるとおぼしき、この世ならぬ御霊みたまへと向けられている。


「陽春丸殿は幼いながら、ほんに、立派なつわものでござりますこと。あんな悲しいことがござりましたのに、誰のことをも怨んでおられませぬ。もちろん、次郎殿のことも、けして怨んではおられませぬ。

 ただただ、次郎殿や千鶴殿たちに生きてほしがっておられる。生きることを楽しんでほしがっておられます。それで、いつも次郎殿たちを守るようにして、そばに寄り添っていらっしゃるのでござりますね」


 熱病にとりつかれたように、有常はがたがたと身をふるわせた。

「私は……私は、どうすればよいのでしょう」


「『自分の分まで生きて、輝いてほしい』……陽春丸殿は、そう仰っておられます」


 いつのまにか、有常のまわりを包んでいたはずの暗闇は消えていた。


 社前には、あわあわとした春の日差しが甦り、童たちが元気な声で遊んでいた。

 幻にとらわれていたのだと気づくや、有常の背筋せすじに、どうしようもない悪寒がふたたび襲ってきた。

 そのせなを撫でさすり、落ち着かせながら、毘沙璃は言うのだった。


「次郎殿、陽春丸殿の仰られることがわかりますか。私はこう思うのです。今度の流鏑馬で、よい結果が出ようと、出まいと、あなたの人生はそれがすべてではありません。それよりももっと大切なことがあります。

 それは……一日一日を感謝をもって、丁寧に生きること。大切に生きること。精一杯、心輝いて生きること。かけがえのない人生ですもの。それが大切ですよ。


 大おじ上やお母上、生きている方々はもちろん、亡くなられた方々……あなたのお父上や大庭三郎殿、陽春丸殿、たくさんの魂たちが、あなたのことを支えてくれています。目には見えません。けれどたくさんの魂が、あなたのことを大切に思い、しっかりと支えてくださっています。だから、自分を罰するのはもうやめて、自分を許しておあげなさい」


 毘沙璃のゆるぎない瞳を、おずおずと受けとめた有常は、その言葉をかみ締めながら、うなずいた。

 巫女は有常の手をとると、石段をのぼり、拝殿へと進ませた。


「このふところ島八幡宮はね、二品様のご先祖の源頼義公が創建されました。百年も昔のことです。次郎殿、御覧ください。あの銀杏いちょうまきは、頼義公、義家公親子が、奥州へ旅立つ前、戦勝祈願を込めて、お手植えされたものと伝わっています」


 銀杏と槙の二木が緑ゆたかに、枝を揺らしている。

 有常は両腕を頭上にかざし、手のひらを光に透かした。

 葉ずれの音が潮騒のように、力強く押し寄せてくる。


「次郎殿、よくよく心を澄まして祈願なさい。馬に乗れること。弓矢を引くことができること。何不自由なく元気であること。毎日ご飯を食べられること。二本の足で歩けること。そのような当たり前と思われることこそ、本当はかけがえのない、ありがたいことなのです。今、満足にあることに、まずは感謝の祈りを捧げるのですよ」


 毘沙璃に教えられるまま、有常は社前に拝礼し、祈りを捧げた。

 その時、それまでにも増してさわやかな辛夷こぶしの香りが、かれの鼻腔びこうを満たした。


 するとふいに、まなうらに、忘れ果てていた幼き日の情景が浮かんできた。

 それは波多野館はだののたてだった。


 有常は陽春丸とふたりで、木登りをして遊んでいた。

 とても楽しくて、心浮き立つような思い出だった。

 かれらの頭上には、白い辛夷の花々が満開で、みな一様に、喜びに弾けるように、青空にむかって花びらをさしだしていた。

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