第22話 有常、毘沙璃を頼ること
本番へむけて、時は、刻一刻と過ぎてゆく。
身に染みる冷気を貫いて、星々が強くまたたいている。
まだ硬い桜の
……なんとなしに、心までもがざわめくようで、どうにか自分を落ちつけようとして、有常は縁側に灯台を置き、小刀を繰り、一心に矢竹を削っていた。
(
口には、幼い頃から唱えつづけてきた、名乗りの文句をつぶやいている。
一字一句、間違いは許されない。
「まだ起きていたのですか。お風邪を召されますよ」
なにげない母親の声に、有常の心が乱れ、思わず手元が狂った。
削りすぎてしまった……。
すると焦りと苛立ちで、急に頭に血がのぼってきた。
「わかっていますッ」と、自分でも思いがけないような、怒気に満ちた声が飛んだ。
母尼も驚いたが、有常自身も驚いた。
「……わかっているのですが、眠れぬのです」
と、小声で、言い直した。
有常は、自分の心持ちが常ならぬことに気づいていた。
どうしようもなく苛々して、夜も寝つけない。
目の前が重たい
浅い眠りに夢をみれば、失敗と不安の夢ばかり。
……たとえば、本番で今にも駆けだそうと腰の
案の定、寝不足がたたって、翌日の稽古もさんざんであった。
清近の激しい怒声が矢継ぎ早に飛んで、それは張りつめた氷のような、そら怖ろしい沈黙へと変り……ついにその日の稽古は、途中でしまいとなった。
黙って稽古を見守っていた景義が、有常を呼んで問うた。
「どうしたのじゃ。いつものキレがないぞ」
「体調がすぐれぬのです」
最近の自分の乱調を、有常はありのままに打ち明けた。
「本番が近づいて調子が狂うのは無理もない。……しかしこのままでは、のう。なんとか元気を取り戻してもらわにゃあ、ならぬわい」
景義は馬の体調を見るのと同じように、有常の片方のまぶたを押しひらき、目玉の色を観察した。
しばらくおいて、この
「そうじゃ、ふところ島の八幡様に、
◆
折々に春の陽射しが薄曇り、肌寒い風が入り混じる、そんな
有常は馬の背にゆられながら、池沼の多い疎林を抜けて、ふところ島八幡の鳥居まで辿りついた。
別当寺の社屋を尋ねると、毘沙璃は有常を快く迎えてくれた。
「歩きましょうか」
長く垂らした、銀髪。
ほっそりとした体には、すみれ色の
老女というには、とても若やいでいる。
折りしも古い
白い花びらは、天からふりそそぐ光の色を吸って、晴れの色にも、曇りの色にも染まるよう。
ふたりはどちらからともなく足を止め、果実のような
鳥居の前では、かむろ頭の幼童たちが、石の地蔵を取り囲み、輪になって遊んでいた。
「
「ありがとうございます」
「そのことで、会いに来たのでしょう?」
有常はうなずいて、近頃の思わしくない自分の様子を話した。
「どうしようもなく不安が襲ってくるのです。弓矢の腕もふるわなくなってきました」
「ふむ、大分、お悩みね。次郎殿のうしろで……」
といって、毘沙璃はちらりと、有常の背後に目をやった。
「……若君がご心配なされているわ」
「え?」
さらりと告げられた毘沙璃の言葉に、急に背筋に寒風が吹いたような
背後にはもちろん、誰もいようはずがない。
「若君?」
「どなたかしら、このお方は……年下の朋友……」
痛むように額を押さえ、毘沙璃はしばらくのあいだ目をつむっていたが、やがて悟って、
「この君がお生まれになられる時、私は
老巫女は、遠い記憶を手繰り寄せるように、切なげに、虚空に腕をさしのべた。
この時、有常は自分の身に何が起こったのかわからなかった。
ただ、辛夷の花の香りが胸苦しいほど強くなり、気がつけば、かれは深い暗闇のなかに立ちつくしていた。
目の前には大きな
扉は両側から閉ざされ、ほどけそうにもない太い
(――うしろの正面だあれ?)
遠くのほうから、幼子たちの
自身の
ふりむかずとも、それが誰なのか、有常にもわかった。
かれはふるえながら、
「大庭の……陽春丸かい……?」
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