第22話 有常、毘沙璃を頼ること

 本番へむけて、時は、刻一刻と過ぎてゆく。


 身に染みる冷気を貫いて、星々が強くまたたいている。

 まだ硬い桜のつぼみの枝が、風にあおられ、不安げにざわめく。


 ……なんとなしに、心までもがざわめくようで、どうにか自分を落ちつけようとして、有常は縁側に灯台を置き、小刀を繰り、一心に矢竹を削っていた。


朱雀院すざくいん御時おんとき……承平に将門まさかどを討ち平らげて勧賞かんじょうこうむりたりし……俵藤太秀郷たわらのとうたひでさと末葉ばちよう……)


 口には、幼い頃から唱えつづけてきた、名乗りの文句をつぶやいている。

 一字一句、間違いは許されない。


「まだ起きていたのですか。お風邪を召されますよ」

 なにげない母親の声に、有常の心が乱れ、思わず手元が狂った。

 削りすぎてしまった……。

 すると焦りと苛立ちで、急に頭に血がのぼってきた。

「わかっていますッ」と、自分でも思いがけないような、怒気に満ちた声が飛んだ。


 母尼も驚いたが、有常自身も驚いた。

「……わかっているのですが、眠れぬのです」

 と、小声で、言い直した。


 きた四月うづきの若宮祭――力を試される日は、もう近い。

 有常は、自分の心持ちが常ならぬことに気づいていた。

 どうしようもなく苛々して、夜も寝つけない。

 目の前が重たいくるの扉でずっしりと閉ざされているような、そんな気がする。


 浅い眠りに夢をみれば、失敗と不安の夢ばかり。

 ……たとえば、本番で今にも駆けだそうと腰のえびらに手をのばすと、そこにあるはずの矢が一本もなく、鎌倉じゅうの笑いものになる……だとか……馬場へ行くと、すでに流鏑馬は終っており、有常だけ日取りを間違えていた……などというような、ありえようはずもない、ッとするような悪夢であった。


 案の定、寝不足がたたって、翌日の稽古もさんざんであった。

 清近の激しい怒声が矢継ぎ早に飛んで、それは張りつめた氷のような、そら怖ろしい沈黙へと変り……ついにその日の稽古は、途中でしまいとなった。


 黙って稽古を見守っていた景義が、有常を呼んで問うた。

「どうしたのじゃ。いつものキレがないぞ」

「体調がすぐれぬのです」

 最近の自分の乱調を、有常はありのままに打ち明けた。


「本番が近づいて調子が狂うのは無理もない。……しかしこのままでは、のう。なんとか元気を取り戻してもらわにゃあ、ならぬわい」

 景義は馬の体調を見るのと同じように、有常の片方のまぶたを押しひらき、目玉の色を観察した。


 しばらくおいて、このめい伯楽はくらくは、うなずいた。

「そうじゃ、ふところ島の八幡様に、毘沙璃びさりどのが参っておられる。会いに行って来なされ。葛羅丸、警護せよ」





 折々に春の陽射しが薄曇り、肌寒い風が入り混じる、そんな日和ひよりであった。

 有常は馬の背にゆられながら、池沼の多い疎林を抜けて、ふところ島八幡の鳥居まで辿りついた。


 別当寺の社屋を尋ねると、毘沙璃は有常を快く迎えてくれた。

「歩きましょうか」

 長く垂らした、銀髪。

 ほっそりとした体には、すみれ色のうちきをまとっている。

 老女というには、とても若やいでいる。


 折りしも古い辛夷こぶしの巨樹が、美々しい花を枝いっぱいにあふれさせていた。

 白い花びらは、天からふりそそぐ光の色を吸って、晴れの色にも、曇りの色にも染まるよう。

 ふたりはどちらからともなく足を止め、果実のようなかぐわしい香りを胸いっぱいに吸いこんだ。


 鳥居の前では、かむろ頭の幼童たちが、石の地蔵を取り囲み、輪になって遊んでいた。


流鏑馬やぶさめの射手に選ばれたこと、聞きましたよ。御慶にござります」

「ありがとうございます」

「そのことで、会いに来たのでしょう?」


 有常はうなずいて、近頃の思わしくない自分の様子を話した。

「どうしようもなく不安が襲ってくるのです。弓矢の腕もふるわなくなってきました」


「ふむ、大分、お悩みね。次郎殿のうしろで……」

 といって、毘沙璃はちらりと、有常の背後に目をやった。

「……若君がご心配なされているわ」


「え?」

 さらりと告げられた毘沙璃の言葉に、急に背筋に寒風が吹いたような怖気おぞけをおぼえ、有常はふりかえった。

 背後にはもちろん、誰もいようはずがない。


「若君?」

「どなたかしら、このお方は……年下の朋友……」

 痛むように額を押さえ、毘沙璃はしばらくのあいだ目をつむっていたが、やがて悟って、嗚呼ああ………と、心潰れるような、悲しげなため息をもらした。


「この君がお生まれになられる時、私は大庭館おおばのたてに呼ばれた。魔を祓い、無事の出産を見届け、この方を言祝ことほいだ……」

 老巫女は、遠い記憶を手繰り寄せるように、切なげに、虚空に腕をさしのべた。



 この時、有常は自分の身に何が起こったのかわからなかった。

 ただ、辛夷の花の香りが胸苦しいほど強くなり、気がつけば、かれは深い暗闇のなかに立ちつくしていた。

 目の前には大きなくるの扉がずっしりと重たくそびえ、ゆく手を塞いでいる。

 扉は両側から閉ざされ、ほどけそうにもない太い数珠紐じゅずひもで、しっかりと結わえられていた。


(――うしろの正面だあれ?)

 遠くのほうから、幼子たちのれ唄が聞こえてきた。


 自身のまなこでは一生見ることがない、頭の真後ろの暗闇――その場所から、強く見つめられているような、迫られるような気配を感じた。

 ふりむかずとも、それが誰なのか、有常にもわかった。

 かれはふるえながら、朋友ともの名を呟いた。


「大庭の……陽春丸かい……?」

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