第14話 西行、星月夜の浜へ降りること
甘縄姫に別れを告げると、師弟はまもなく広々とした前浜へと降り立った。
星を酌み交わした、あの星月夜の浜辺である。
まっすぐに伸びる水平線を邪魔するものは、なにもなかった。
湧きたつような白雲が、低い空に連なっている。
太陽は雲よりも高くのぼり、織りはためく
浦人たちはただただ黒い影となって、波と光とが織りなす金銀の
黒い砂に腰かけ、ふたりはしばらくのあいだ陶然と、まばゆいばかりの光景に心奪われていた。
「西有よ」
「はい」
「二品殿の御所で、そなた、女官に見惚れておったな」
ふいをつかれた西有は、肝をつぶし、赤面した。
しかし、正直に懺悔した。
「はい。……美しい、と思いました。私は修行が足りませぬ」
その通り、と言うように、西行は深くうなずいた。
「よいか、西有。私が出家したのは二十三の時だ。それ以前、私は妻も持ち、子も持ち、栄誉ある院の北面に暮らした。思えばその二十三年間の在俗の暮らしは、今ある私にとって、誠に意義深い」
――いったい何の話をはじめたのだろう?――西有は気真面目な顔で、
「有常」と、ふいに呼び名を戻した老僧は、いっそうやわらかな調子でささやきかけた。
「ふところ島へ帰りなさい。和殿はまだ、齢二十にも満たぬ。出家はいつでもできよう。今はまだその時ではない」
若者は驚いて立ちあがった。
「師匠、私をお見限りになるのですか」
「そうではない。まあ、座れ」
力を奪われたようにがっくりと腰を落とした青年に、老僧は仲よく内緒話でもするように身を寄せた。
「よいか、有常。私は今までさまざまな場所に旅し、数知れぬ多くの人を見てきた。その私が言うのだから、聞いておくれ。そなたは馬を見れば、無心に馬に呼吸をあわせる。女官を見れば、心呆けて見惚れてしまう。そなたは口では出家したいと言いながらも、その奥に潜むそなたの
青年は深刻な顔で、うつむいた。
「そら、元気を出せ、有常よ。出家はとりやめだ。来年、この鎌倉で流鏑馬が開かれる。私は好機到来と見た。流鏑馬ならば、そなたの厭う戦の道とは異なろうぞ。そなたは今からふところ島に帰り、人々に先駆けて流鏑馬の技を磨くのだ。
昨夜、私が二品殿に話した内容を覚えておろう。書き留めてもある。流鏑馬で手柄を立てよ。さすればそなたは面目躍如、立派なつわものとして、鎌倉中に認められることだろう」
西行のおもてが、ふいに厳しく引き締まった。
「私は元の名を佐藤
そなたは生まれたその時から、秀郷流の挙措や武芸が仕込まれている。そなたと初めて会うたとき、私にはそれが感じられたよ。最初会った時、私が『
自分の手で道を
「しかし、しかし……」
なおもって抗う若者の瞳は、海の色を映し、青い涙を浮かべていた。
その固く透きとおった色を見た時、西行はおもわず声をつまらせたが、かつて武人であった分厚い
「なんでも言うことを聞くと、申したはずだ」
潮騒が、やさしくゆるやかに、心あやすように、くりかえしくりかえし、ふたりの胸のうちに押し寄せてきた。
西行は有常をその広い胸に抱き寄せ、頭に
「
それは西行が人生のなかで幾度も口にしてきた、別れの文句であった。
その老師の目にも、いっぱいの涙があふれていた。
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