第10話 西行、出立のこと
西行の、出立の朝が来た。
短いあいだではあったが、景義はこの人物に改めて惚れこんでしまった。
折り目正しい挙措、言葉の端々から伝わる深み、おおらかで軽快な雰囲気――景義は恐れ入りながら、頭をさげた。
「実は、
「はて、なんでしょうか」
なにやら仔細ありげにあらたまった景義の様子に、西行は小首をかしげた。
景義がおもむろに手を叩くと、縁側からしずかに現れたのは、ひとりの小坊主である。
小坊主の頭は青々と綺麗に剃りあげられ、髪の毛は一本も見えない。
西行は、アッと驚き、目を疑った。
……よくよく見れば、それがなんと、有常なのであった。
「出家したい、と言い出しましてな。昨晩、ふたりでよく話しあいました。この頭はこの者の決意の現われでござります。ご迷惑ではござりましょうが、どうぞ、弟子にしてやってはくださりませぬか」
坊主頭の有常がその場に
「私はこの数日というもの、西行殿の立派なお姿、お人柄に触れさせていただき、心からの感銘を受けました。それで、出家いたしとうなりました。終生、父の菩提を弔いとうござります。景親大伯父の、陽春丸の、先の戦で亡くなられた人々の、菩提を弔いとうござります。どんな雑用、力仕事でもこなします。どうか私を弟子としてお連れくださりませ」
息子の背後に、波多野尼もまったく同じ切実な顔をして、頭をさげた。
西行は大きく息を吐き、母子の顔を見ながら、瞬時に考えを巡らせた。
「……
「問われれば、もはや、世になき者と」
「左様か……」
西行はしばらくのあいだ
「よろしい、承ろう。……しかし、次郎殿。弟子となるからには、私の言うことに逆ろうてはならぬ。よいかな」
「ハハッ。覚悟の上です」
顔を輝かせ、有常は馬上に弓を引き
その顔を、すこし気がかりな様子で見つめながら、西行は言った。
「それでは共にゆくとしよう。そなたの身は今この時より、西の極楽浄土に有る。――『
「ハイッ」
心の霧が晴れたような、明るい返事だった。
話はまとまり、いよいよ出立となった。
景義、波多野尼、千鶴丸、葛羅丸、ふところ島の雑人たち、みなが有常との別れを惜しんで、門口に見送りに出た。
「帰りは
西行師の言葉に、有常はうなずいた。
「……母上、お元気で……」
愛息の決意と旅立ちとを思い、母尼の目には涙があふれた。
(もはや二度と、会えぬやもしれぬ……)
有常は青々とした坊主頭に、薄墨の
みなの気持ちと裏腹に、表情は明るい。
西行はふと、
「この御仁も、ただものではない」
景義は表情も変えず、うなずいた。
「左様、
老僧はなにか言いかけたが、景義の
景義も共につきそい、いざ鎌倉へ。
西行はふところ島の人々に丁寧に挨拶し、背をむけた。
ひとりの少女が土堀の端に、膝を抱えてうずくまっている。
暗くうつむいて、顔の様子は見えない。
一行はその前を、黙って通りすぎた。
「よいのか?」
「ええ、いいんです。みおにも昨晩、説明しました。もう、決めたことですから」
みおからもらった『つき』の一葉は、文箱にしまったままで、屋敷に置いてきた。その心のこもった多羅葉の葉に、有常とて、幸福を感じないわけではない。
むしろ、その葉をもらってからの二六時中は夢のような甘い陶酔とともにあった。
つらく苦しい気分に襲われれば、心励まされた。
しかし――
(……しかし、私は罪人なのだ。この機に出家することが、私にとっても、みおにとっても、よりよい道なのだ。私は出家して、父や大伯父、陽春丸を、心をこめて弔う。念仏をしっかりと覚え、もしできることなら西行師のように、歌のひとつも
みおはこの里で、これまでのように里人たちのなかで、仲間たちに囲まれて楽しく暮らしていく。ふたりはまるで出会いもしなかったかのように、お互いの人生を、充実して生きていくのだ。それでいい……いや、それがいいんだ)
みおはようやく、一晩中泣きはらした顔をあげた。
大好きだった人の背中が、遠くへ、遠くへと、遠ざかってゆく。
(ふたりでお月見しようって、約束したのに……約束したのに……)
どうしようもなく
「バカ、バカーーッ」
遠ざかってゆく背中にむかって、みおは拳を握りしめ、ありったけの声を張りあげた。
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