第9話 有常、老婆に驚くこと
夕刻、裏庭に老婆がひとり、影のようにたたずんでいた。
有常は驚いて息をのんだ。
よく見れば、それはみおの祖母なのであった。
「どうか、御曹司さま。わしのような卑しいものが忍びこんだのを、お許しくだっせぇ」
あらかじめ語り出しの文句を決めて、ずっと心のなかに繰り返していたのだろう。
老婆は気ぜわしく早口に言いながら近づいて、突然、有常の前にひざまずいた。
「どうか、どうか御曹司さま。お願いでございます。金輪際、みおには近づかないでやってくださりませ」
有常は縁から飛びおり、老婆を立ちあがらせようとした。
だが老婆はかたくなに膝をつき、石のように頑固に抵抗して、けして顔をあげない。
「どのようなわけで、そのようなことを……」
「みおは里の娘でござります。あなたさまは、武家のお人でござります。住む場所が違うです。里の者は、言ってみれば、たんぼの蛙と同じでごぜぇます。蛙と人とは、
なんと答えていいかわからず、有常が黙っていると、老婆はふたたび、同じ話をくりかえしはじめた。
かれは、苛だちながら答えた。
「私とて、みおがどうしたら幸せになれるか、考えないわけではない……」
するとすかさず、老婆は言葉の接ぎ穂を奪った。
「であれば、御曹司さま。あなたさまは『姫さま』とか、『御前さま』とか言われるような、お綺麗でやんごとなきお方を、おめとりくだされ。けして、醜い蛙の娘に手を出すようなことは、やめてくだされ。それでみながみな、しあわせになれるのです」
老婆は地面に、それこそまるで蛙のように這いつくばり、どうか、どうか、と繰り返し懇願するのだった。
老婆は身分の違いについて語ったが、実は、本心はそうではない。
老婆の本心は「罪人と関わりたくない」……その一点に尽きる。
景親と陽春丸の断罪が、この老婆の恐怖の源となっていた。
有常の胸には、里で見かけたみおの姿が思い出された。
みおは他の娘たちと一緒になって、男たちと快活におしゃべりしていた。
かれらとともに楽しげに田歌を唄っていた。
みおは美人で、婿になりたい、という里の男たちも多い。
そうした男たちを相手に、みおは遠慮もせず、活発に笑い、活発に喋っていた。
有常に見せるおとなしげな顔とは、違っていた。
どちらが本当の顔なのだろう――
(みおには、みおの世界がある)
有常は思った。
(私には、私の世界が……)
いつか、みおに聞かれたことがある。
『次郎さって本当は、偉い偉い殿様だって、本当? あたしなんかが声もかけられないほどの?』
……だから近づくんじゃない、と、祖母からしつこく釘を刺されたという。
『今は、ただの罪人さ』
……その時は、そう答えた。
だが、いつまでも罪人のままでよいわけもない……
その晩、有常の胸にひとつの決心が生じ、つめたい光をはなちながら、重く、重く、凝り固まっていった。
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