第8話 有常、みおと約束すること
三
いつもの多羅葉樹の下で、老僧は手馴れた様子で湯をわかし、茶を煮出し、少女にふるまった。
木椀に口をつけたみおの顔が、ぱっと輝いた。
「おいしい」
「ふふ、よい香りであろう?」
みおは香りを吸い込みながら、もうひとくちすすりこんだ。
「この香り、知ってる。ふじばかま……」
「ほう、よくわかったな」
西行は驚いて目を見ひらいた。
ちょうど今の季節、まだ
「あたし、花の名前ならなんでも言えるよ。草の花も、木の花も」
「ほぉう……それでは、あれは?」
「あれは、『つゆくさ』でしょう。これは『とこなつ』、あっちのは『をみなえし』」
無邪気な様子で、次々と言い当てた。
「なんと、物知りなことよ」
ほめられて、みおの顔は俄然、輝いた。
「獣の名前も、鳥の名前も、ぜんぶ言えるよ」
「すごいものだ」
「えへへ」
老僧は心底から、驚きと感動を覚えた。
(文字を知らぬからといって、この娘を見くびっていた。なんと利発な子か。私もまだまだ修行が足らぬ)
野辺のむこうでは、顎を外れんばかりに真横にずらしながら、一匹の
人が近づく気配を感じるや、ぴっと耳を立て、あっというまに逃げ去ってしまった。
「あ、次郎さだ」
「行っておいで」
みおは裸足の足裏を見せて、元気よく駆けていった。
野辺のあちらこちらに、紫の炎が燃えあがるような
周囲を気兼ねし、ふたりは用心ぶかく葛の茂みに隠れた。
「次郎さ、十五夜にね、みんなで八幡さまに集まって、お月見をするの」
「ふぅん……」
「あたし、こっそり抜け出すから……」
そう言って、みおはふり返った。
「ふたりだけでお月見をしよう?」
「え……」
ふたりきりで夜に会うということがどういうことか、わからないわけではない。
有常は心臓が飛びあがり、喉がカラカラに干上がった。
「わかった」
そう答えるのが、精一杯だった。
「契りきな?」
「契りき」
ふたりは小指を絡ませた。
みおは照れ隠しのように、多羅葉の葉を一枚、差し出した。
裏には憶えたての一生懸命な文字で、「つき」と書かれてあった。
西行は舌の上に、藤袴の茶をころがした。
――その耳に、ひとこえ高く、雲をつらぬくような牡鹿の声を聞いた。
※ このシーンは、西行法師が旅の途中に、ふところ島~藤沢のあたりで詠んだ歌、
芝まとふ 葛のしげみに 妻こめて
を、下敷きにしました。
当時の藤沢には、普通に鹿が生息していたようです。(今の野良猫のように)
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