第7話 景義、西行と談ずること
稽古を終えて、有常と西行が屋敷に戻ると、いつものように湯殿の石が真赤に焼かれていた。
その焼け石に、雑色が桶の水をぶちかける。
ジュワワッと激しい音をたて、朦々たる湯気が殿内にたちこめる。
何度か繰り返すと、気持ちのよい蒸し風呂ができあがる。
この蒸し風呂で、ふたりは並んで垢を落とした。
「極楽、極楽」
乾いた手拭を首にかけ、さっぱりとした気持ちで縁側に出ると、美しく色めいた夕空に
屋敷はいまだ夏の
景兼と千鶴丸も呼ばれて、みなで夕涼みにくつろいだ。
時に、景義がなにげなく、手の甲にとまった蚊を潰した。
すると西行はおだやかに「一寸の虫にも五分の魂と申します」と言って、自分は頬に蚊が留まっても顔色ひとつ変えず、虫が血を吸うままに任せている。
それを見て景義はひたすら恐縮するばかり――年長の僧の前で、子供のようにちいさくなった大伯父の珍しい姿を見て、有常は
「
と、波多野尼も笑みを隠しながら言った。
「それがいい」
景義は雑色を呼んで、庭に煙を焚かせた。
波多野尼は茶菓子を乗せた
真っ白に透きとおった、肉厚で果汁たっぷりの瑞々しい瓜が、綺麗に切りわけられている。
「かたじけない」
西行は合掌し、上品な仕草で
ひやりとした心地よさが格別である。
「おお、美妙」
「井戸水で冷やしておきましたから」
波多野尼はにっこりと笑い、瓜を小皿にとりわけた。
「ささ、伯父上。有常、あなたたちも……」
「ありがとうございます」
「よい風が出てきましたの」
「ほんに」
紫の煙が立ちのぼる空に、瓜をちぎり割ったような夕月が浮んでいた。
西行はまぶたを細めた。
老僧の深い色の瞳には、蚊やりの煙さえ、季節の風流と映るようだった。
若い頃、
「西行殿、この度はいったいどのようなわけで、奥州を目指しまするか」
景義が尋ねると、西行は瓜の小皿をしずかに置いた。
「四十年前に訪れた時、奥州平泉は浄土のごとき、すばらしい都であった。死ぬ前にあのすばらしい都をもう一度見てみたい。奥州を統べる藤原秀衡という男は、心栄え晴れやかな、立派な男。もう一度、その奥州の友と歌を詠み交わしてみたい。そんな気持ちもある。けれども……」
西行はおもむろに目をつむり、決意をこめるようにゆっくりと、力強く言葉を口にした。
「いまや私の踏み出す一歩一歩が、いわば、死出の旅路。一歩、また一歩、また一歩と……この一歩に全身全霊をかけ、これが最後とばかり、
ふすぶっていた蚊やりの炎が、折りからの風に燃えあがり、ぱっとあざやかな紫の火の粉を吐き出した。
「こたびは、ひとつ、重大な目的がある」
「いずこかへ、
「いや、さにあらず……」
微笑して、西行は説明した。
「さる年、平家の手によって東大寺大仏殿が焼け落ちた。前代未聞の凶事だ。その後、大仏殿の再建がすすみ、昨年には盧舎那仏も再興、開眼供養も無事に済んだが、まだまだ
「なるほど、そういうわけでござりましたか……」
「しかし、たとえ奥州での勧進がうまくいったとしても、奥州から東大寺へ無事、金が渡るためには、そのあいだにおられる
二品殿とは、従二位の官位を得た、頼朝のことである。
昨今、金などが奥州から都に送られる場合、直接に送られることはない。必ず鎌倉を経由することになっている。
「そこでひとつ、平太殿にお願いがある。聞いてくれるかな?」
「はい。いかな?」
「平太殿のお力で、この西行を、二品殿に会わせていただきたい。さりげなく、自然な形で……。できうれば……口うるさい御家人方のおらぬような場所であれば、最上なのだが……」
西行の心をよく呑みこんで、景義は方策を立てた。
「わかりました。西行殿のお役に立てるは、わが喜び。ちょうど
折りしも、中秋の名月。都で有名な歌人、西行殿の名を聞けば、都びいきの二品様は必ずお会いになられるはずですじゃ」
「お頼み申す」
と西行は頭をさげ、ふたりの話はすぐにまとまった。
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