損切りできない

司弐紘

損切りできない

「徹君」


 大きくも小さくもない、柔らかい声で俺はいきなり背中から名前を呼ばれた。

 こんな風に俺を呼ぶのは一人だけなので、振り返りながら俺は返事をする。


咲恵さえ、デートじゃなかったのか?」


 と。


 声をかけてきた相手は、小学生の頃からだから、もうすぐ十年の付き合いになるだろう「友人」の中野咲恵。


 ウェーブの掛かったロングヘアを赤いバンダナで緩やかにまとめ、ピンクのカーディガン羽織っている。今の季節に合わせて春らしいと言えばそうなんだけど、なんとなく古めかしい。


 一言で言えば「昭和」。


 でも、かなりモテる。今日も何処かで知り合った社会人とデートだと聞いていたが、まだ午後一時過ぎだというのに、どうして大学がっこうに現れたのか。


「う~ん、何か違ってね。引き上げてきちゃった。徹君は?」

「教室行ったら誰もいなかったから、休講かどうか確かめに……ああ、やっぱり。いつ貼り出されたんだ?」


 掲示板に向き直りながら、いきなり独り言が多くなった俺。

 内心では喜びの声を上げている。


 何しろ俺は十年来、咲恵に片思い中なのだ。


 それがデートを始めて、すぐにキャンセルになったようだから、その社会人と付き合い始めるという展開ではないのだろう。


 だけど、付き合い始めてくれれば、俺は十年来の片思いにきっぱりと別れを告げて、自由になれる――特に束縛されてはいないんだけど。


「そっか~、じゃあ映画でも行く?」


 だけど、こんな風に誘われたら、


「行く」


 としか返せない俺。

 ……やっぱり、何だか束縛されてる気持ちになる。


 でも、


「やっぱり徹君は、私の中で一位だね」


 と、とどめの一言が放たれてしまうとなぁ。


 これを言われると悪い気持ちはしないし、もう俺と付き合っちゃえ、というか、これもう付き合ってるんじゃないのか?


 ……と思うんだけど、咲恵にとって俺はあくまで「友人」であるらしい。


 つまるところ――俺は一体、どうしたら良いんだ?


                 *


 ただ今回の咲恵と社会人は付き合うんじゃないか? はちょっと期待をしていた。これで咲恵との関係に変化があるんじゃないかと。


 というか変化して欲しかった。だってもうすぐ二十歳はたちだぜ?

 

 それで以前よりは、心のモヤモヤが溜まっていたんだろう。同じクラスの、三井玲音れいに愚痴をこぼしてしまった。


 玲音は一言で言えば「いい女」だ。


 美人であることはもちろん、スタイルも良くて、睫毛ビシビシで化粧もアクセサリにも余念はない。自分が美人だって知ってるんだろうな。


 それなのに基本パンツ姿で、服装だけで言うのなら男装している様にも見える。

 髪型はショートとおかっぱボブの間ぐらいだから、ますます。

 今日はストライプのシャツの上から紺のベスト。パンツはベージュでまとめていた。


 その玲音は俺の愚痴をひとしきり聞いた後、カルボラーナを食べていたフォークの先で俺をさしながら、


「それは“損切り”しないとダメなんじゃないのかい?」


 と、指摘してきた。


 ちなみに今日は、咲恵が社会人を速攻でフッた翌日。なんとなく、と言うか当たり前に愚痴が長くなったので、食堂で延長戦というわけだ。


 俺と玲音は商学部。ちなみに咲恵は文学部に在籍している。


「損切り……俺が何か損してるって事か?」

「損って言うか、含み損だね。ここで中野さんと縁が切れたら、今まで彼女と付き合ってきた時間が損になると徹は思ってるんだ。だから身動きが取れなくなる」

「……それは……かなり当たっているのかも知れない」


 実に商学部らしい説明の仕方だけど、それだけに納得してしまいそうな気持ちになるな。確かに今まで咲恵と過ごした時間は、無しにしてしまいたくない。


 俺は箸を置いて、カツ丼を食べるのを一時休憩する。少し考えてみるべきなのかも知れない。


 玲音は、恋愛関係について当たり前に――美人だから――色々経験豊富と聞いているので、だからこそ愚痴ってしまったし、今の指摘にも説得力がある。


 玲音とは大学がっこうに来てからの付き合いだから、そろそろ二年か。

 二年の割に、随分親しくなった気もするが、玲音から距離を詰めて来たんだからな。


 二年の間に俺は何度か咲恵の話もしているので、相談するのに手間が掛からない、ということも、玲音に愚痴ってしまった理由になるだろう。


「でも、その『一位』っていうのは初めて聞いた。中野さんはいつから?」

「ああ、それな……小学校の時に告白してから『友達』って言われて……あれ? 一位とか言い出したの中学の時だったかな?」


 へぇ、とそれを聞いた玲音が愉快そうに目を細めた。


「言い出したきっかけは思い当たるのかな?」

「え? そんなに重要かな?」

「愚痴聞かされたんだ。ちょっとは私の楽しみにもなってくれよ。中学で何かあったんじゃないのかい?」


 そう言われると、確かに思い出すぐらいはいいか、という気持ちにはなるな。

 中学の時か……ええと――


「――あ、ボクシング始めようとしたんだよ」

「ボクシング? 徹が?」

「もちろん俺だ。そうしたら、咲恵が必死になって止めるんだよ。ああ、確かにあの時の咲恵はいつもと違ったな」

「それは私だって止めるよ」


 それを聞いて、俺は面白くなくなった。

 つまり、俺はボクシングが似合わないって事なんだろう。


 俺は身長が百七十に届かなかったし、あんまり肉もついていない。

 親戚の遠慮無いおじさんからは「女顔」と言われることもある。

 つまりは、どうかすると「かわいい」とか言われる。


 玲音も俺の見た目については、今までの連中と同じ考えらしく、その上――


「せっかく綺麗な顔してるのにもったいない」


 これぐらいは普通に言う。俺がヤケになってカツ丼をかき込み始めると、玲音も少しはバツが悪くなったのだろう。

 カルボラーナをフォークに巻き付けながら、


「で、どうしてボクシングを?」

「ああ、それな。その頃、父さんが持ってた古いボクシング漫画がちょっと流行ったんだよ。咲恵も好きだった」

「ああ、それで……」


 つまりはそういうことだ。

 咲恵がボクシングに興味があるものだと思ったんだけど、そういうことではないらしい。


「けなげだねぇ。徹も普通に他の女の子と遊べば良いじゃないか。『友達』なんだし。遠慮はいらないだろ」

「それは咲恵はそうだけどさ」


 俺は、カツ丼を飲み込んで先を続ける。


「……俺は咲恵に告白してるんだし、それなのに他の女の子と遊んだりするのは、違うだろ?」


 玲音の目が見開かれた。

 はいはい。

 どうせ童貞がどうとか、気持ち悪いとか、そういう言葉をぶつけてくるんだろう。


 俺はどう言い返してやろうか、と構えていると、玲音からはさっぱり言葉が返ってこない。

 何だ? と、思って改めて玲音の様子を窺ってみると、なぜか、ハァ、とため息をついていた。


 何だか顔も赤くなっているような……


「そういうことだったのか……いや、それは私も損切りすべきとは、わかってるけど――徹」

「な、なんだ?」


 いきなり玲音から名を呼ばれた。

 え? どういう流れ?


「確かに、損切りは難しいよ。私も今、それがわかった」

「いきなりなんだよ。じゃあ、諦めずに咲恵と上手くいくように頑張れって事?」


 話の流れでは、そういうことになるよな。

 けれど、玲音は俺の言葉を聞いてテーブルに突っ伏してしまった。


 一体、何がどう……?


「徹君」


 その時、今日も背中から咲恵が声をかけてきた。


「昨日、出して貰った夕食代を返そうと――」

「ああ、いつでも良い……って、何? 咲恵どうした?」


 振り返って確認した咲恵の様子。俺は今まで見たことが無い。

 今日も、長い髪を二つくくりにしてレモン色のトレーナー姿で、やっぱり「昭和」だけど、何だかモジモジしているような?


 そうやって俺が首をひねっている間に、玲音が咲恵に声をかけた。

 いつの間にか復活していたらしい。


「もしかして、あなたが中野さん? 私は徹――瀬古口くんと同じクラスの三井玲音です。時々、瀬古口くんの話にも出てくるからって、いきなり話しかけてごめん」

「あ、あ、いえ、そんな事は全然。あ、そうでした。私は徹君――瀬古口徹君の『友人』の中野咲恵です」


 完全にわかりやすく咲恵が変だ。

 こんなに動揺してる咲恵を見たこと無いな。


 それに、考えてみるまでもなく二人は初対面――もしかしてこれは嫉妬やきもちって奴かも知れない。


 だとすると、これで俺と咲恵の関係に変化があるかも……


 俺は、咲恵に一緒にお昼食べないか、と誘ってみることにした。そうすると咲恵は喜びに満ちた表情で何度もうなずくと、すぐに俺の隣に腰を下ろした。


 いや、でもそれじゃ――


「徹君、徹君」

「な、何?」


 何か買ってこないと、と言いかけた俺の耳元で咲恵が囁く。

 こんなことも滅多に無かったぞ。


 一体何が――


「三井さんって、すごく格好良いね!」


 …………はい?

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