夏浅し飛行機雲のきれいな日

 カクヨムで短歌、俳句コンテストが開催されるそうで(他人事)、にわかにそういうものを作り始めた人が増えているらしい。新作のタイムラインを見ていると、コンテストのタグ付きの作品がぞろぞろ出てくる。だが、それを見ているとどうも俳句より短歌の数の方が多く見えるのは私の目の錯覚だろうか。たぶんそうではないと思う。これが意味するものとはつまり、「短歌は俳句より作り易い」ということに帰結するのではないか。

 私もずいぶんと恥ずかしげもなく駄句を積み重ねてきたものだが、つくづく思うことは俳句の語数の短さである。それでも私が短歌ではなく俳句を取るのは明らかに性格的な問題であって、私はくどくどと説明臭いことを詩の形で表現するのが嫌なのだ。それに短歌の解釈の幅の狭さ、それは語数の多さから生じるものだが、そこにも不自由なものを感じる。また短歌は百人一首以来、どうも情緒纏綿たる作品が多いのも性に合わないし、何よりも短歌は覚えきれないのである。これはちょっと面白いことに、宇田喜代子が似たようなことを言っていた。この人は、短歌とは言っていなかったが、詩を暗記することがとても不得手だそうだ。しかし俳句ならいくらでも覚えられる。自分の覚えている俳句の語数を合わせれば、一編の詩と同じくらいの分量になるだろうが、それでも詩は覚えられない。俳句なら覚えられる。

 宇田喜代子の俳句は好かないが、これには私も同感である。そうなのだ。詩や短歌はなかなか覚えられない私だが、好きな俳句はすぐ頭の中に居場所を見つけてしまう。そうして覚えている俳句の語数を足せば、短歌だと何首分になるだろう。それなのに私はいつになってもサラダ記念日が何月何日なのか覚えられない。啄木が上野駅に聞きに行ったのが何弁だったのかもあやふやである。どうも俳句向きの頭と短歌向きの頭があるのではないかと思う。私は自分で俳句を好きになろうと意識した訳でもないのに、俳句は面白いものだと子どもの頃から思っていた。

 それにつけても俳句の語数の短さだ。「こういう語句を入れた一句を作ってみたい」と思っても、それが長い語句だとたちどころに行き詰まる。俳句における長い語句とは、恐らく六文字以上からではないか。私が長らく思っていた、「入れてみたい語句」は、「飛行機雲」だった。

 何気ない言葉だが、俳句に読み込むのが難しい。無理に突っ込んで字余りにしてしまうのはだらしない。飛行機雲、と置いてみたところで残り十ニ文字で何を言うかも問題である。短歌だったら六文字の置き場くらいでこうまで悩むことはないだろう。


 梅の香が空に届きて道となり飛行機雲と並び伸びゆく


 今年の梅の時期に試しに作ってみたのだが、ちっとも苦労らしい苦労をしなかった。なるほど短歌は作り易いものだと思った。しかし私が本当に作りたいのは俳句だ。何とかして飛行機雲を十七文字に閉じ込めたい。試行錯誤の末出来たのが掲出句である。


 夏浅し飛行機雲のきれいな日


 飛行機雲が一番きれいに見える季節はいつか。いつでも同じような感じがするが、初夏のこの間見上げた空に伸びていた飛行機雲はなかなかきれいだった。飛行機雲は純粋な1本の線ではなく、飛行機に備わった2つのジェット排気筒?から出てくる2筋の線である。勢いがいいのか、例えば水で濡らした紙に墨を含んだ筆を走らせると、線の周囲に毛羽立ちのような滲みができるように、飛行機雲も滲んでいるように見えるものもある。

 そういう飛行機雲をじっと眺めていると、私は首が痛くなってくると同時に、この空にはどこまで行っても手で触れられる果てはないのだと気付き、発狂しそうなほど恐ろしくなる。飛行機雲は天井に描いた絵のように見えるが、実際にはあの飛行機雲の向こうには、まだまだ計り知れない空間が広がっているのだ。そう考えると、飛行機雲は未知へのとば口と言えようか。

 しかしここでは、飛行機雲は「きれいなもの」として留めておく。

 ところで「きれい」とはいかにも主観的な言葉であって、「何がどうきれいなんですか?」と聞かれても「きれいなんです」としか答えようがない。しかしこういう常套的な表現であってもすんなりと読める文章がたまにはある。私は井上靖の小説はそれなりに読んだ方だが、この人の文章を読みなれると、実に常套的な文句で溢れていると気づく。しかしそれらがみな、陳腐さを感じさせず、その言葉本来の意味でスッと読む者の中に入ってくるのだ。井上靖の文章から感じられる一種の気品によるものだろうか。もちろん私の俳句とは月とすっぽんの話だが、「そうとしか言い表せない表現」というのはどうしても存在するもので、「きれい」というのはその最たるものではないか。きれいの感覚は人によりけりだが、飛行機雲を見上げたことは誰だってあるだろう。ところで冬の夕暮れ時の澄んだ薄茜色の空に音もなく伸びていく飛行機雲も、とても美しい。

 ところで長い季語をうまく使うのは実に難しい。長いとは先にも言ったように六文字以上の言葉だ。例えば「ヒメムカシヨモギ」という草の名前がある。もうぼちぼち出始めた草で、テツドウグサの名前でも知られている。名前を聞いてもピンと来ない人も、そこら中にある草なので姿を見ればわかるだろう。

 それにしてもこの季語を使うとそれだけで十七文字の半分を食ってしまう。つまりはどういう状況にこの語を置くか、或いは何と取り合わせるか、ということだが、そこを上手く仕上げたのが飯田龍太のこの一句。


 ヒメムカシヨモギの影が子の墓に


 ヒメムカシヨモギは必ずと言っていいほど、オオアレチノギクと一緒に生える。オオアレチノギクは、ホウセンカみたいな葉をしているが、ずっと大きく育つ。ここ最近通勤路でもよく見る。しかしヒメムカシヨモギの方が、繊細な作りをしている。中央の根幹となる茎から横に派生する細かい茎の造作が細かいのだ。雨粒をまとうと意外ときれいである。そんなヒメムカシヨモギは、なるほど影にもそれなりに趣があるだろう。その影が、幼くして亡くなった子どもの墓にかかっている。子どもの墓の背丈をとっくに越して大きく成長したヒメムカシヨモギかもしれない。夏の暑さにささやかな日陰を墓の下の子どもに作ってやりたいという親心が、ヒメムカシヨモギとなって現れたと見ることもできよう。ヒメムカシヨモギという大胆にも見える語数の多い季語を使ってはかない光景をものした俳句は他にそうはないだろう。

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