髙の字の梯子にのぼってみたい夏

 俳句はテキトーでいいんです。

 季語について思い患わなくともいいんです。

 だって季語って不自由でしょ?

 その季語が入ることによって、イメージに制限がかかる。

 季語を入れなければならないという圧力やプレッシャーが、俳句から人を遠ざける。

 季語を知っているから俳句を知っていると言わんばかりの勘違い俳句エリートを生み出す。

 俳句を勉強するということを言う人がいます。

 俳句は受験ではありません。社会的地位を求めて出世するためにするものではありません。

 俳句は遊びです。

 日本語という言葉でどんな遊びが出来るかという一つの可能性を試すための遊びです。

 だから勉強など無用です。

 ただ、最近なんかいい作品が出来ないなー、と思った時に、他の人の作った作品を読めばいいのです。

 作者の有名無名は構わない。

 ぜひ貪るように読んでください。

 3日間飲まず食わずに放置された人が、食べ物を抱えて口に押し込むように。

 それを勉強と呼ぶかどうかは趣味の問題。私はそんな下品な呼び方は死んでもしません。

 そうやって読むに読めば、少なくとも次のことには気づくはずです。

 有名な作者だって、ずいぶんヘンチクリンなものを代表作として平然と差し出しています。

 一度代表作として登録されてしまえば、作品は一人歩きしていくから、ヘンチクリンはヘンチクリンのまま通用していくのでしょう。

 そんな世界です。

 そんなヘンチクリンな作品など相手にする必要性はない。

 次の一句、次の作者に行きましょう。小説を一冊読むのには、一日くらいかかるかもしれませんが、句集なら2時間くらいで済むでしょう。

 そんな風に読んでいけば、誰だって一人くらいは好きな作者が出来るはず。

 俳句なんてすぐ出来ます。誰にでも出来ます。そう言うと、いい社会人の方々(私の周りにもたぁくさんいますが)は、変なものを作って恥をかくのが嫌だから、敷居が高いだの難しそうだのと言って、近寄ろうとしません。

 これ等の人たちはアホウです。

 だって俳句なんて子どもでも簡単に作れるんですから。

 いや、子どもの方が俳句の先生と言っていいくらい、面白い俳句をたくさん作ります。

 だから松尾芭蕉というあのおじさんは、「俳諧は三尺の童にさせよ」と言ったのです。

 このこと一つとっても、あの松尾芭蕉というおじさんは、やっぱり大した人だったんだな、と単純な私は単純に思います。

 だから、俳句を難しそうと思って遠ざける大人が本当に難しいと感じていることは、子どもに戻ること、だとも言えるのでしょう。確かに、それが簡単ではないことは否定できません。

 ところで、私もいい大人でたぶん社会人の端くれですが、私はもともとその両方が嫌いで嫌いで仕方ないので、そういう既得権益にどっぷり浸かっている方々を鼻で嗤いながら一句作ってみました。

 高っていう字はよく分かりませんが別バージョンがあって、通称「ハシゴダカ」なんて言われたりします。即ち「髙」ですね。3画目から6画目が梯子に見えるからハシゴダカ。実に安直な命名です。このハシゴダカの梯子を見て、せっかく梯子なんだからのぼってみたいなーと思って作ったのが掲出の一句です。

 分かってます。分かってます。そんなこと出来るワケありません。

 例えば「髙」という形の巨大なモニュメントや彫刻を作って、この「ハシゴ」の部分はのぼりますよ、なんて表示でもしたら子どもなんかのぼって遊ぶでしょうけど、恐らくそんなモニュメントはどこにもありません。

 でも俳句だったら、こんな子どもが喜びそうなことでも出来るのです。髙の字の梯子、たった2段しかない大したことない梯子ですが、そこに足をかけている自分を想像出来るのです。

 そしてこの句の季語ですが、これは「夏」で決まりです。なぜなら、この句を作った今は、暦の上で夏だからです。

 私は前に「地球儀にマグマは入っていない春」という句を作りましたが、これは春に作ったから春なんです。夏に作ったら夏になっていたでしょう。

 これまた、ハシゴダカの命名と同じくらい安直な季語選択のようですが、でもこの2つの句の言いたいことは、要するに季語を除いた残り15字にあるのだから、季語なんかおまけで入れておけば十分です。それに他に入りそうな言葉は短すぎて思い浮かびません。

 私はよく思うのですが、日常生活とかけはなれた季語って、一部の俳人が自己満足に耽りたいためだけにあるようなものではないでしょうか。

 例えば「卯の花くたし」なんて季語がありますが、私には意味が分かりません。歳時記で見たような記憶もありますが、覚えていません。そして私がこの季語を入れた句を作ることはきっとないと思います。

 俳句の中だけでしか存立し得ない季語、現実世界に馴染みのない季語。そういうものを駆使して、読者を感嘆させるような一句が出来ればまだしも、何というか作者の「こんな難しい季語を使ってやった」感ばかり滲み出る句が多いように感じます。

 そもそも、ある特定の季語を使いたいがために一句詠むという行為がつまらないのです。つまり俳句のための俳句です。ごく閉鎖的なお仲間の中でやるのは構いませんが、それを俳句のメインストリートであるかの如く勘違いしている人には、私は底はかとない冷笑が込み上げてくるのです。

 極端に言えば、季語は「春夏秋冬」の4つの語で十分だとも思います。というかそれが基本のはずです。でもそれだけでは回収できない情景や感情が多すぎて、いろいろな季語が生まれたのでしょう。

 しかし繰り返しますが、季語の基本にあるのは季節は4つあるという事実です。そして私たちは生きている以上、常にこの4つの季節の上にいるということです。「卯の花腐し」という言葉を使った一句に、それを作った時の自分の生きている姿を見出だすことは出来るでしょうか。

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