ひとしきり叱られて見る雲は夏
季節の移り変わりは雲にも現れる。夏の雲と言えば入道雲と相場が決まっていそうだが、いつもああいう重苦しい雲ばかり夏空に浮かんでいるものではない。夏の初めの雲は、キャンバス上の絵具の塊を刷毛で左右に散らして、魔女がホウキに乗っているような形になる。あれがとても清々しく見えて、私は初夏の空を眺めるのが殊に好きなのだ。そのまま夕暮れになると、ごく薄い紫色の空を背景に、それよりも濃い段階の紫に漂うホウキ様の雲は、これからねぐらに帰るよ、と言っているような気がする。
紫と言えば、尾崎紅葉に「紫」という小説があるのだが、これが滅法面白い。私はベストセラー作家というのはどうしてベストセラーになるのか、今の人も昔の人も大抵わからないのだが、尾崎紅葉だけはなんであれだけ人気だったのかよくわかる。とにかく面白いのだ。そんなの理由になってないか。文章もセリフも語彙も、言葉づかいはいかにも明治のものなのだが、きびきびしていてさくさく読める。読みづらさというのをほとんど感じない。百年前の小説なのに、だ。
考えてみれば、紅葉の小説の多くは読売新聞の連載小説として発表されたもので、この時代は新聞の購入者が買えない人に音読してあげていたような時代だから、紅葉はそれこそ誰にでも理解出来る文章を書かなければならなかった。今でこそ言文一致の文章は当たり前のものだが、明治時代はまだ文章のプロだってそう書き慣れてはいなかったはず。お手本もないから自分で開拓していったのだ。しかも連載しているのだから日々書き進めなければならない。さくさくと書き流しているようでいて、途方もない努力とエネルギーを注いでいたに違いない。正宗白鳥は、紅葉は文章にこだわり過ぎて命を縮めたようなものだ、という意味のことをどこかで書いていたが、さもありなんと思う。
この小説「紫」は、医師の国家試験に受かるべく奮闘中の青年を取り巻く人間模様を描くもので、その試験の結果を知らせる通知(合格の場合の通知だったか?)が紫色をしているのでこういうタイトルなのだ(それもまた、なんでこうすぐ意味の通らないタイトルなのか?と読者に考えさせ、種明かしを求めて小説から引き離さないようにする紅葉のテクニックだろう)。
私がこの小説の存在を知ったのは、坪内祐三の『慶応三年生まれ 七人の旋毛曲がり』を読んでのことだが、さすがこの著者だけに、この小説の取り上げ方がうまかった。
話の最初の方で、青年の隣家に住む夫婦の家に、同居する夫のおばが帰宅するシーンがある。妻はその時、朝飯が足らなくてこっそり一人で何か食べている。がさがさ音がして、誰か帰ってきた。咄嗟に妻は、何かいっぱいにものを頬張っている口のまま、こう言うのだ。
「ウバラア?」
もちろんこれは「おばさん?」のことだが、すごい言葉のセンスだと思う(この「おばさん」が実に愛すべき名キャラなのだ。私はこの人を推す)。確かに口にモノが詰まっていれば、こういう発音になるだろう。坪内もここを面白く思ったらしく、前後の文章を引用して、その味わいを伝えている。私は生前の坪内祐三という人は大した人ではないと思っていたが、今はこの部分だけでも感謝したいような気持ちだ。
ところでもしかしたら紅葉は、この「ウバラア」を引き出すために、妻とか子供とか書生に、口に食べ物を詰めたまま「おばさん」と言わせ、一番面白かったものをここで使ったのではないか?そう思わせるほど、こんな細部にも彼の文章のこだわりは徹底されている。白鳥いわく、もっと気軽に書き流していれば紅葉も長生きできたのかもしれないが、しかし百年経っても読者を楽しませてくれる文章とはもはや文化遺産と言っていいだろう。ちなみにあと紅葉の小説で私が特に好きなのは「多情多恨」である。「金色夜叉」は早々にくじけた。
話が俳句から完全に脱落してしまったが、この句を作った時、別に私は誰かに怒られた直後という訳ではなかった。ふと空を見ると先述した刷毛で散らした雲が広がっていたので、子どもが親に叱られて外へ飛び出してみると、雲はもう夏になっていた、というような場面を想像したのだ。
ところがこの翌日、仕事の関係で頭を下げなければいけない事態が生じてしまい、お叱りまで受けてしまった。そんなに深刻な話ではなかったものの、私は明日の自分を予言した俳句を作ってしまったようである。
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