不意に小指が伸びて天漢突き冷たい
時折読み返したくなる小説を、誰しも一つくらいは持っているのではないだろうか。私の場合は
東京の下町にある寂れた飲み屋が舞台だ。主人公の男は30代始めくらいだが無職のようで、毎晩のようにこの飲み屋に来る。無愛想な「オバチャン」が一人でやっている小さな店だ。常連の客も、一線を退いたサラリーマンや引退した店主ばかり。皆、若い頃から「オバチャン」を囲んだ仲であるらしい。店は彼らの存在を中心として動いている。
ストーリーが進むにつれ、登場人物それぞれの内面が明らかになる。それはどんな小説でも同じことだ。首都高速に見下ろされるようにして、昔からの家々や街並みが肩を並べる「銀河の街」。その高速道路に押されるようにして、街は再開発の波に少しずつ晒されていく。主人公が、常連客の若き日の写真ばかりが収まったアルバムを眺める「オバチャン」から、近く店を閉じることを告げられるシーンで一編は終わる。
全体的にくたびれた人ばかりが登場する小説だが、印象的な若者が一人いる。最初は同年代の「男の子」と一緒に来店するが、その後一人でまたやって来て、同じく一人で食べている主人公と居合わせる、19歳の女だ。「デンキブラン」を知らない彼女に主人公が注文してやったりして、二人は会話を交わし始める。
店はお開きの時間となり、二人は夜の街を連れ立って帰る。遠く、首都高速の光が見える。
女は、それが天の川のようだと言う。彼女は目が悪いようで、ぼやけて見える光が、固まりのように目に写るのだろう。
主人公のかつての恋人は、あの首都高速の光を「誘蛾灯」に例えたのだ。その周りに汚い街並みや無数の人びとの生活や欲望が集まる光源。しかしそんな世間を斜に見る視点から捉えた光の意味を女に伝えるには、19歳は若過ぎる。
「でもあたしにはやっぱり星に見えるなあ。・・・秋の夜空の天漢なるかな」
あとの半分は歌うような調子で、女が言った。
「テンカン?」
・・・「そう、天プラの天に漢字の漢と書いて天漢」
「何だよ、天漢って」
「天の川のこと。昔の言葉で天漢っていうんだよ」
女は主人公にそう話しかけながら、ふらふらと不規則な調子で歩きはじめた。やや調子の外れたところのある若い女だ。酔っているのかもしれない。高速道路の光を誘蛾灯と見るのと、「天漢」と見るのと、どちらが幸福なのだろうか。主人公の目には、その高速道路が街の上に覆いかぶさり、だんだん街から光を奪っている元凶なのに、「並ぶランプを天の川のようだと言ったこの女も、なんとなく哀れなもののように」思えた。
だが、心のどこかに羨ましさはなかっただろうか。現実の光景を空の彼方に広がる「天漢」に重ね合わせてしまう若さと自由さ。それこそは、社会から居場所を確かに失くしつつある主人公が、同時に失っているものなのだから。
私がこの小説が好きな訳は、ほとんど事件らしい事件はなく、舞台は大抵夜で、登場人物も少なく、何よりも全体が静かな雰囲気に充ちているからである。
そして案外、この「天漢」のくだりが印象づけられているからかもしれない。私もこの主人公と同じく、19歳の女に「天漢」という言葉を教えられた。どうして「漢」の字がつくのか追及したことはないが、学生のように見えるがそうでもなさそうな若者の口から出るには渋すぎる知識というギャップが、小説にささやかなアクセントを与えている。そういえばこの小説を書いた時鷺沢萠も19歳だったそうなので、女には作者自身が投影されていると見ることも可能か。
天の川はもちろん季語だが、「天漢」はそうと認知されているのかどうか。まあ同じことだから使ってみたのだ。この句は全く「不意に」やってきた。小指が空に向かって伸び始め、天の川に届き、冷たかったのだ。そんな感覚が、本当にしそうな感じがした。
実際の星は太陽からの距離によって暑かったり、冷たいどころか氷の塊だったりするのだろうが、天の川は川の言葉に引きずられる面もあって冷たく見える。触ってみると冷たいのか、温度はないのか、謎としか言いようがないが(実際に近接してみれば個々の星の間の距離は同時に触れられるほど近くはないだろうけれど)、俳句の世界ではできてしまうようだ。地上にありながら、小指だけが知っている天上のまぼろしの川の冷気が、じわじわと立ち始める鳥肌となって全身を駆けめぐる。
鷺沢萠は、山川方夫と並んで私が最初に好きになった作家だった。35歳で死んで、もう20年近くになる。慌ただしい世間はもう彼女のことを過去の存在として完了形にしてしまっているようだが(もはや講談社文芸文庫でしか入手できない)、私にとってはいつまでも大切な作家である。彼女の命日は4月11日。毎年その日になると、私は真っ先に鷺沢萠を思い出す。「銀河の街」が読みたくなる。
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