死んでゆくひとの眼のいろ氷水
イリヤ・レーピンの描いた作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像画にずっと惹かれている。昨日今日の話ではなくて、私は小学生の頃からずっとこの絵が好きなのだ。私はどこか変わっている子ども(いまもかな)だったのだろう。
音楽室にかかっていた訳ではない。画集で見たのだろう。ムソルグスキーと言えば「展覧会の絵」があまりに有名だが、音楽室に肖像画がかかる程の音楽史的に重要な人か?というと微妙なのではなかろうか。ポピュラーな人が必ずしも重要人物ではないことは珍しくない。
この肖像画のムソルグスキーはいかにも病気やつれしていて、着たきりと思われる寝巻のまま、鼻は赤く、ヒゲも髪も伸び放題。目はとろんとしてあらぬ方を見つめているように見える。体臭が漂ってきそう。彼は相当な酒飲みで、42歳でアル中で死んでしまった。いまのロシア人と大差なさそうだ。こっちの方がもうちょっと長生きだろうけど。
物の本によれば、このムソルグスキーは死ぬほんの数日前の姿らしい。そう言われればそんな風に見えるが、私はそうすぐに死ぬ人の姿とは思えなかった。この絵を単なる酔っぱらいの姿(もちろんムソルグスキーであることを知った上で)であるかのように言及している文献も読んだ記憶があるが、つまりひどく酔ってはいるけれど一晩寝ればまた元気に活動しそうな人と見えなくもない。死にかけている人の姿なのだが、皮肉なことにとても生き生きとした描写なのだ。
この絵の何が私を惹き付けるのかと言えば、やはりムソルグスキーの眼だろう。「死んでゆくひとの眼のいろ」である。
この眼の色には、何の感情も見出だせないだろう。死への恐れもなければ絶望もない。不安やなげやりさもない。もちろん希望や勇気もない。自分の死にすら関心を失くした者の眼、と言っていいだろう。
穏やかな朝の荒野の眼。波乱も騒動も動揺も喧騒もない、宇宙のような静かな眼。
2013年にBunkamuraでレーピン展があった時、この絵も出展されていたので、私は実物を見たはずだ。しかし何の記憶もない。むしろ小学生の頃、画集で見て、鉛筆描きで摸写しようとして、あの眼の感じがどうしても上手くいかなかった記憶の方が強く残っている。
そう、誰かの死を見届けた経験のある人でなければ、世を去りつつある人の姿を本当に捉えることはできないのだろう。
レーピンとムソルグスキーは5歳違いで、この絵を描いた時レーピンは37歳だった。彼は帝政の崩壊も社会主義革命も目撃し、86歳まで生きる。ムソルグスキーの生涯の二回分ということになる。
たくさんの肖像画を手掛けた巨匠だったが、死にゆくムソルグスキーの姿を描いたことは彼にとって忘れ難い思い出だったのではないだろうか。レーピンは同時代の著名人の公的な肖像画も多く描いているが、あのムソルグスキー以上に人に感銘を与える作品はないだろう。リアリズムと言えば残酷なまでのリアリズムだが、間もなく儚くなる人を前にした時胸に溢れてくる感情を画面に流し込んだような、暖かい人間的な共感の情も伝わってくる肖像画だと思う。異国のものを知らない小学生にまで、不思議に心を打つものを与えてくれたレーピンの表現の力を、私は深く敬愛する。
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