一つだけで良し太陽もガーベラも

 ガーベラの炎の如し海を見たし


 という句がある。青柳志解樹しげきの『俳句の花』という本に載っていて、ガーベラを詠んだ代表句と目されているらしい。作者は加藤楸邨。

 ところで私はしばらくの間この句を、


 ガーベラの炎の如き海を見たし


 だと思っていた。遠くからでも際立つ大きく鮮やかな花をつけるガーベラ。まるで炎のようなガーベラの花が、見渡す限り並んでいる。それがまるで、ガーベラの燃える海のようだ、という感じなのだろう。

 しかしこれは私の勘違いで「如し」が正しい形だとすると、だいぶこの句の意味は変わってくる。

 つまり


 ガーベラの炎の如し


 海を見たし


 で、別の感情として切断されてしまうのではないかということだ。ガーベラが炎のような花というのは感覚としてわかる。その後に唐突に「海を見たし」の下五がくる。前半との連結が何もない呟きのようだが、俳句の技法ではあり得なくもない。

 いや、この「如し」は、「如き」であってもその働きは変わらないのではないか。つまりどちらであろうとも、作者はガーベラが大量に並んでいる光景を目の前にして、そこに海を感じているということか。いままさに陽が沈んでいく落日の大洋をガーベラの花群に見いだしているのだろうか。もっとも「見たし」というのは未来への希望を表す語意だろうから、現実にはまだ見ていないことになる。すると・・・

 ああ、わからなくなってきた。どうもこういう読み解きは苦手だ。

 それはそれとして、ガーベラは今が旬の花である。これほど「贈り物」にふさわしい花もそうはあるまい。一つそこにあるだけで、空間がぐんと変わる。それだけに、他の花を色褪せたものにしてしまいそうだ。突出した存在が周囲のそれほどでもない存在を食い荒らすように。それは花に限ったことではない。

 私の職場では毎年この時期に、花にまつわる大きなイベントがある。その会場を装飾した余りの花を持って帰っていいと言われ、たくさんの花の中からいくつかを選んだ。ゼラニウム、クロダネソウ(ニゲラ)、カッコウアザミ、ビデンス、ロベリア、ドラムスティック。

 ガーベラの鉢もいくつもあったのだが、これは選ばなかった。他に選んだ花たちが何だか気の毒な感じがしたからだ。それだけこいつは、やたらと存在感がある。

 ガーベラは無機質で殺風景な空間にそっと置かれるというのがふさわしい花なのではないだろうか。他の花と一緒になりながら一際自分の存在感をアピールしているのも見映えがするが、見捨てられたような場所で一鉢だけ存分に咲き誇っているのも悪くはないと思う。

 ちょうど、地球を照らす太陽が、一つだけあれば十分なのと同じように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る