夏の匂いして暴動の見れる街
ある俳句についてのエッセイを書いている人が「わかる人だけついてこいという姿勢の俳句はその時点で終わっている」という意味のことを書いているが、本当にそうだろうか。私の見る限り、世間の「俳句」と呼ばれる作品の7割は「わかる人だけついてこい」式のものばかりである。そう考えると私が目にする俳句は「終わっている」俳句ばかりということになる。しかし終わっている作品しか量産されないということは、既に俳句という文芸そのものがどうしようもなく終了しているということであり、ならば私が今まで作ってきた基本五・七・五の定型詩は、一体何物なのだろうかということにもなる。
そもそも俳句とは何なのだろうか。
この人曰く「わかる人だけわかる姿勢の俳句は終わっている」、ということは、俳句は「誰にでもわかるものでなければいけない」ということになろう。しかしそんなものをマックのハンバーガーのように切りもなく生産して何が面白いのだろうか。私は前にもどこかで書いたが、いわゆる「伝統的な」俳句を志向するのであれば、松尾芭蕉一人で十分なのだ。結局あの人がいつまでも語りつがれるということは、あの人以上の存在は未だ出現していないということであり、ならば芭蕉式の伝統俳句なんか21世紀にもなって新たに作る必要なんかないのである。屋上屋を重ね続けることに変なやりがいを感じる倒錯趣味なんか、人生の浪費としか思えない。
伝統的と言われる俳句には、きっと「あるべき姿」というものが想定されているのだろう。見本、お手本である。だから俳句は芸術になれないのである。生け花や茶道と同じなのである。俳句職人がにやつきながら横行するのである。ひと様の作った作品を恥も外聞もなく「添削」してお手本に近づけ、された側では高名な先生様の御添削を有りがたくも受け奉って感謝の涙にむせびながらそのうち短冊だか色紙だかに書いて床の間にでも飾って親戚一同への披露に及ぶのだろう。馬鹿馬鹿しい限りである。
こういう「俳句」にはたぶん闇は必要ないのだ。青天白日気分明朗であればいいのだ。
花鳥風月であればなおいいのだろう。完成形がはっきりしている生け花ができれば満足なのだ。陶芸教室で自分専用の猪口を作れればご満悦なのだ。どこかの誰かが既に吐き気がするほど同じようなものを手がけていたとしてもどうだっていいのである。「こんな俳句はいままで誰も作ったことはないだろう」などという冒険はお呼びでないのだ。
しかしそこが俳句の難しいところで、本当に独創的な俳句というのはそうあるものではない。やはり語数が短く、多くの言葉や要素を盛り込めないことはネックである。行分け(高柳重信)とか一字空け(富澤赤黄男)とか全部漢字(夏石番矢)とか「独創的」に見えるやり方があるが、すぐマンネリ化しそうである。そしてこの字形で花鳥風月を詠んでいたら、音読した時結局は同じことになる。いや、こういう技法をやり始めたこういう人たちは、俳句は絵のように目で見るものと捉えていたのかもしれないが、私は俳句は口に出してこそ妙味があると思っているので、「何を詠むか」に重心を置かなければ仕方ないだろうと感じている。
こうやって俳句に関する雑言を書いていると、いかにも前に書いたのと同じことを繰り返しているなあと感じる。まあ全然違うことを言っているのもどうかと思うが、一つくらいは以前の意見に付加出来るものがなければわざわざ書く意味もない訳である。
以前同じような御託を並べたとき、俳句は同性愛を扱っていないと書いた。そこに一つ付け加えたいのだが、俳句は暴力ももっと描写すべきだと思う。また犯罪(行為)や反社会的行為を詠み込んだ俳句が出現しても面白いと思う。昔文芸評論家の秋山駿が、「現代文学は犯罪者やその内面を取りいれた作品を書いてこなかった」という問題提起を持って、「内部の人間の犯罪」のような優れた評論文をものしたが、俳句もそういう要素を取りいれた作品があったっていい。良い意味で(というのは坪内稔典のある種の俳句のように明らかに奇を衒っているとしか思えない妙な句ではなく)触れた人の意表を衝く俳句、俳句にはこんなこともできるのかと読む人に感じさせ、こういうものが俳句なら自分もやってみたいと思わせるような俳句。スマホとかコンビニとかゲイとかバズるとか、権威的俳句の志向者たちが眉をひそめそうな語句をばんばん使った俳句、そういうものが日本の俳句の主流になるといい。
ようやく掲出句への言及だが、これは私なりに「暴力」を盛り込んだ一句である。ら抜き言葉は好きでないのだが、「暴動の見える街」では目の前で起きている暴力の渦中にいる感じが出ない(傍観者的)ので、あえての「見れる街」とした。暴動というモチーフは粕谷栄市の「暴動」という詩から触発されたものだ。
夏に差し掛かる季節である。夜の街には、どこかムッとした、空気に暗色系の色がついたような匂いが漂う。特に夜でなくとも構わないのだが、殺気だった人びとが集まって日ごろの不平不満を爆発させる機会は、夏の夜というまだ街中に多くの人が展開しているロケーションが合っている。この街では暴動が起きるのは珍しくないのかもしれない。肉体労働者が多く居住する街とか。夏に差し掛かるこの時期の空気に流れる匂いが、彼らの神経中枢を刺激し、有り余るエネルギーが暴発するとも言える。そういう不穏な雰囲気こそが、夏の匂いなのだ。
ここまで書いてきたところで、偶然梅沢富美男の句集というものを読んだ。上手い。やはりひとかどの師匠についているだけはあるのだろう。どれもこれもみな、いかにも俳句ヅラした俳句である。私はこういう俳句をつくる方向性に梶を切ることはないと思う。きっと、うまくなろうという向上心を持つとこういう客観的に上手い俳句が作れるようになるのだろう。しかし、元々自分の中にとぐろを巻いている「表現すべきもの」をより高い完成度をもったまま排出するために技術や感受性の向上を図りたいという気概を持つのならともかく、ただ単に「先生に褒められたいから」というような理由で上達を目指しているだけなのであれば私は一切買わない。そして上手い下手は所詮一つの基準でしかない。ここに収められた俳句は要するに上手いというだけであって、私の記憶に残るものは皆無だ。別に私は嫉妬や意地悪でこういうことを言っているのではない。本当にそうなのだ。だから一口に俳句と言っても、一口に人間と言ったところで人種も違えば性格も違うように、それぞれの道があるとしか、結局は言いようがないのだろう。その中で好き嫌い、気に入る気に入らないがあるのはやむを得ないはずだ。
話のついでに最後にもう一つ言っておきたいが、私にはどうしても気に入らないある「ジャンル」の俳句がある。私はそれを「俳壇内輪俳句」とか「業界俳句」と呼んでいる。
その最たるものは、例えば
春の暮老人と逢ふそれが父
ただ表面的に見れば、春の夕方に外を歩いていて、老人に会ったが、それが父親だった、というだけの句だ。しかしこの能村研三の父親は、能村登四郎という著名な俳人であり、また能村登四郎は一度見たら忘れ難いかなり独特な容貌の人で、老いてますますそれに磨きがかかったという側面がある。つまりこのどうということもない一句は、以上のいかにも俳句業界内のことを知っている人でなければ味がわからない(恐らく理解した人は一様に吹き出したのだろう)、業界ジャーゴン上等の句なのだ。冒頭で言及した「わかる人だけついてこいという俳句は終わっている」と書いた人よ、「プロ」の俳人にしてこのザマぞよ。
俳句業界に首までどっぷり浸かった人には楽しい句なのかもしれないが、何というか、私にはとてもとても嫌らしい句としか思えない。「この句の面白さが理解できるなんて、あなたも俳句の勉強がずいぶん進んだじゃない。大したものねえオホホホホ。」と言われているような、閉じられたサークル性を感じずにはいられない。季語の無知をたしなめられるのはまだしも(それは俳句においてやはり無視し得ないものだから)、こういう句の魅力(?)をわからないからといって見下したような態度を取られるとしたら、私は「バカヤロウ」と言ってしまうかもしれない。能村登四郎や能村研三がいかに偉い俳人であったとしても、世間全体の中での存在感など高が知れている。俳句の世界の人は俳句の世界の視点でしかものを見ないのかもしれないが、それでいい句ができるなんて保証はないのである(ちなみにこの句は小澤實の『名句の所以』という本に掲載されているのだが、こういう句が名句にカウントされてしまうことに「俳壇」的なものの病理があると思う)。他にこの種の「業界俳句」をいま思いつくことができないが、こんなものどんどん忘却の彼方に追いやってしまうべきなのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます