極限の景色を見たよ少年A
この頃人工知能の勢いが活発である。表現の世界にも容赦なく押し寄せてきて、文章を書いたり絵やイラストを描いたりということもたやすくこなしてしまうだけに、クリエイターの存在意義すら問われているようである。
職業としてクリエイトなことをしている人たちが脅威を感じるのはわかるが、趣味で何かを作っている人も、何かしら自分の表現作品について思うところを持ち始めているようだ。
つまるところ、自分の書いていることなど人工知能にもたやすくできてしまう。そしてそれ以上の水準の作品が出来上がってしまったら、そもそも趣味で創作をする意味なんかないではないか?大方はこんな問なのだろう。
しかし私はそんなことには全く興味がない。人工知能に脅威を感じるのならば、自分より遥かに才能や読者を誇る人にも脅威を感じるはずだろう。ならば既にいまの時点で何かを表現することなどやめているに違いない。しかしそうしていないのだとすれば、やはりアマだろうと素人だろうと、何か言葉で伝えたいものを持っているということであり、それは人工知能が存在しようとしなかろうと無関係のはずである。大体上手いか下手かというのは一つの価値の基準に過ぎないのであって、万能でも絶対でもない。
人工知能の登場で自分の表現が脅かされると感じるのなら、それはそもそも表現すべきものを持っていないということに他ならないではないか。
だから私は人工知能が自分の書くものより圧倒的に上手いものを作ったとしても、全くどうでもいい。そんなものつまらないし知ったことではない。それは私が何かを書きたいという感情とは無縁である。ただの話題に過ぎない。人工知能と競合しようという気もない。彼は彼、我は我である。人工知能が名声を得たいのなら勝手にすればいい。どれほど人工知能が偉かろうと、所詮有限の存在に過ぎない人間が開発した機械である。いつかは機能を停止する日が来るだろう。無限を達成できない存在はすべて本質的に空しいのである。人工知能だって人類が存在するからこそ意味を持つのだ。
埴谷雄高の『死霊』は思ったよりも面白い小説だが、特に印象深いセリフがあった。首猛夫(猛男だったか)とかいう変な名前の男がこう言うのだ。「地球が滅亡する日の光景は、地球が始まった時の光景と同じだろう」。たぶんその通りだと思う。そして誰もそれを確かめられない。しかしその最後の瞬間のとき、もはや人工知能と人間の知能の優劣なんていうどうでもいい事柄は、永遠の無に帰すだろう。誰一人そんなつまらないことに気を揉む者はいなくなるだろう。その最後の瞬間を見届けるのは、もはや人類ではないかもしれないが、太陽がぐんぐん地球に接近して全てが光に飲み込まれる時を体感する誰かはきっといるはずだ。
人類は進歩しているのかもしれないが、滅亡に向かって歩んでいるのは確かである。全ての人間が死に向かって毎日を生きているのと同じである。そういう視点から人間の営みを見れば、どれだけ深刻な現実であろうと高が知れているとわかる。人間の作り出した途方もない兵器や技術も、いずれ自然の力によって息の根を止められるだろう。人類が滅ぶのは核戦争によってであると久しく言われているが、私は人類の滅亡は気候変動によって起きると思っている。終息の見通しのたたない世界規模の戦争が勃発したとしても、やがて極端な気候変動によって戦争どころではない状態に追い込まれて終わるだろう。その極限の時、それを見届ける誰かの目にはどんな世界が広がっているだろうか。私は自分が人間であることが嫌になるたび、そんなことを夢想する。
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