風に乗り桜は散らず空に向かふ
私は憧れや目標というものをほとんど持たない人間だが、そんな風な言葉で言い表したい俳句をずっと胸に潜めている。
夢ひとつ叶へて戻れ草の絮
ふけとしこ
読売新聞の朝刊には長谷川櫂の「四季」というコラムがずっと掲載されていて、毎日名句や名歌が紹介されている。この句は2009年9月7日に掲載されたものだ。当時まだ自分で俳句を作ろうなどと思っても見なかった学生の私だが、読むのは好きで、一目見てああ好きな句だなあと思ったのだ。
綿毛は風に吹かれてポッとどこかへ飛び立つが、作者はその綿毛は夢を叶えるために巣立つという。そしていつか戻ってこいと呼び掛ける。その温かさ。包容力。どんな人にも一つは夢があるだろう。地球を花の土台に例えたら、私たち一人一人は時が来れば飛び立ってゆく綿毛のようなものかもしれない。長谷川櫂は句に付した文章でこう言っている。
「秋草の…草の絮に呼びかけているのだろう。しかし…これから旅立つ人へのはなむけとも聞こえる。人生の新たな門出にこの句を贈られたら、きっとうれしいに違いない。」
いま読み返しても、本当にその通りだと思う。
一般に俳句に限らず、文学というものは(俳句が文学かどうかという論議はさておき)否定的なものだという固定観念が強い気がする。以前澁澤龍彦の本についていた月報に黛敏郎(だったと思う)がそんなことを書いていた。日本文学は不機嫌であることが基本姿勢のようになっているが、そんな中でも数少ないが上機嫌な文学者というものもいて、その一人が澁澤龍彦だと。
私が今まで作ってきた俳句も含めてのことだが、やっぱり否定的な作品が多いと思う。有り体に言って暗い内容ということだ。孤独だの死だの自裁だの一人ぼっちだの、お日様に背を向けた世界を好んで表現している。
それはそういうものに惹かれる性格だからという一言で済まされることではない。やはり否定的な作品が名作であり、人間の真実を射貫いている作品とは登場人物が不幸な目にあったり信じられないような経験をしたり謎の死を遂げたりするものだという暗黙のルールに流されている側面は否定できない。他者の評価や未読に耐え得るものを創作する上で先行作品からの影響は不可避のはずだからだ。
だからといって深刻な顔つきの作品ばかりが文学とは言えまい。考えてみれば当たり前のことだが、いろいろな賞を取る作品の梗概を見ても、この当たり前はどうも片隅で埃を被っているとしか思えない。
掲出句は文字通り桜をよんだものである。桜ははかなく散っていくもの、と寂寥と虚無のまじったマイナスな感情で語られることが多い。ここにも文学における否定モードが発動しているというべきか。
しかし、この桜のひとひらが枝から離れてそのまま散るのではなく風に乗って高く高く空へ向かうと捉えたら面白い。桜は散って終わりではなく、そこからまた新しく始まるのだ。
現実にはあり得ない光景だし、空に向かっていったあと最終的にどうなるのか何もわからない。そんなことを追及しても仕方なく、肝心の部分は全て切り取られ、読む者の自由に任せられる。私はいつになっても「詩」というものがよくわからない人間だが、どうも「詩」とはそういうものらしいと、最近薄ぼんやりと思い始めてきた。
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