春うららジョンとヨーコも死別した

 エヴァ・ヘス(ヘッセと表記されることもある)という芸術家がいた。ユダヤ人で、幼児期にナチスの迫害に遭い、精神的にも肉体的にも病を抱え、家族的なトラブルも多く、34歳で癌で亡くなった人だ。

 独特のオブジェ制作で知られ、根強い人気もあったらしい。

 この間ある美術の本でヘスの作品を見た。彼女は古びた紙で様々なオブジェを作ったそうだ。本に載っていたのは、黄ばんだ皺だらけの紙を貼り合わせて作られた浅い碗のようなもの。というだけで、一体これが何を表すものなのかはわからない。解説によれば、彼女はこのような「純粋なもの」を作ろうとしていたらしい。身の回りにある「もの」には全て用途がある。だからただ単に「もの」ではなく、用途に応じた名前がある。人間が身に纏う布は服と呼ばれ、歯を清掃するために口に突っ込む毛のついた棒は歯ブラシと呼ばれる。しかしヘスが作ったこのすぐ壊れそうな器のようなものには、何の用途もない。何かの役にたつものではないだろう。即ちこれは、用途が生まれる以前の原始的な状態の「もの」ということなのだ。「まだ何物でもなく、いつまでも何物にもならないもの」。それが私には面白く、印象に残った。

 そういうことを頭に留めながら、純粋な俳句とは何だろうかと考えてみる。やはり現実描写が一番純粋性が高いということなのか。目の前の情景を的確にスケッチするのがいいのか。それではつまらない。純粋とは意味が生まれる前の状態と考えるなら、何の意味もなく突っ込んでも仕方ないようなものが「純粋な俳句」になるのではなかろうか。


 春うららジョンとヨーコも死別した


 この句に何の意味があるのかと聞かれても、答えようがない。ジョンとヨーコと言えば10人が10人ジョン・レノンとオノ・ヨーコの夫妻を連想するだろうが、いかにもありふれた名前だけに、この著名な夫婦以外にも世間にはジョンとヨーコの組み合わせは存在しているかもしれず、そして夫が銃で撃たれた訳ではないとしても既に片方が片方と死別しているかもしれない。私にはそんなことはわからない。春うららというのも意味は全くない。ジョン・レノンが射殺されたのは12月だから、あの夫婦のことを指すのであれば春うららは変な訳だ。だからひょっとしたらやっぱり違うジョンとヨーコというカップルのことを言っているのだろうか。

 ジョンとヨーコ「も」と言っているように、世の中のカップルはいつかは必ずどっちかが先に死んで片方が残されるものだとでも言いたいのかもしれない。だとしたら陳腐な言い種である。しかしその陳腐さに、意味のなさを狙ったとも読める。

 どちらにせよ作者にはわからない。こんな風に、深い意味など何も考えず、ただ頭に浮かんだ言葉を並べて何となく五七五に揃ってしまった言葉の列を、純粋な俳句と呼んでみようか。

 しかし、そう考えると世の「俳句」の大半は、純粋な俳句ということになるのだろうか。

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