箸立てに亡者の箸も彼岸入り
亡くなった家族の食器を片付けるタイミングは難しい。理屈から言えばもう誰も使わない可能性が高いのだから、亡くなった翌日からしまいこんだり捨ててしまっても構わないのだが、そういう人はあまりいないだろう。別にそういう人を冷血とかドライとか言うつもりはないしそんなこと言ったってその人の性格は変わらないだろうが、どこか釈然としないものが残る。
端的に言えば、その人がもうこの世の人でないことを心が納得した時が、死者の食器を仕分けする時なのだろう。いつまでもその人のことを身近に感じていたいし、食器の二つや三つくらいあって困るものでもないのだから、現に生きている人たちのものと一緒にしておきたいという気持ちもわかるが、生者と死者は同じ存在ではない。
いつまでも死者の存在がつきまとうのは生者にとって良いことなのだろうか。
「自分はどこにも行かないでいつもここにいる。しかし呼んでも返事はできないぞ」という意味の和歌を一休さんがよんでいるが、こんな執着心の強い死者に始終見張られるくらいなら、いっそ死んだ方がましではないかとすら思える。死者と生者の間には、適度な距離があった方がいい。
モンテーニュという人は面白いことをよく言った人で、葬式についても明快なことを書いている。あれは生きている者が死んだ人はもう死んだのだということを受け入れるためにするもので、死者には無関係だと言うのだ。
しかし、死者の食器がいつまでも食卓から去らないのであれば、ある意味で葬儀がまだ完了していないということにもなる。
人間の気持ちは取って付けたような儀式一つで解決されはしないということなのだろう。葬儀は社会的な区切りであって、心情的なそれがいつ済むのかは故人とその人との生前の距離次第と言えるのではないか。
誰がいつ片付けるのかも一つの問題である。そして片付けられたことが家族の間で話題となるのかどうかも微妙な事柄である。そもそも他の家族は、亡くなった人の食器や箸がまだ自分たちのものと一緒に置かれていることに気づいているのだろうか。意識することはあるのだろうか。
改めて話題にされることなく、生きている人は生きている人の日々を過ごしていくうち、「去る者は日々に疎し」で次第に故人は過去に溶け込んでいき、ある日誰かが片付けるのか。
「もの」はいずれ形を失くす時がくる。有名な人であれば、遺品に値段がついて売買されたり、記念館に飾られたりするかもしれないが、それはごくごく例外に過ぎない。
「もの」に依存することのない「その人」の記憶を、生きている間にたくさん持ちたいものである。残された者がこの世にある限りは、それは場所を取ることなく存在し続けるだろう。
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