少女あり広場を駆けて行く孤独

 20代で自分の作品世界を確立し、あとはおおむねその繰り返しで長い余生を送った、というタイプの画家がたまにいる。

 すぐ思い浮かぶところでは、エドゥアール・ヴュイヤールとジョルジョ・デ・キリコだ。

 私はどちらの画家も好きだが、一般的に言って「上手い画家」かどうかはわからない。技巧的にそんなに優れているとは思えないし、ずいぶんぎこちないと思える作品も多い。しかし確かに他の作者名ではなく、常に彼らその人の名前しか思い出し得ない作品世界を彼らは30歳までには作り終えてしまった。彼らの代表作としていつも言及されるのはほぼ20代のものばかりだ。なのでその後何を描いて過ごしたのかよくわからない。そういう意味では非常に稀有な人たちである(ヴュイヤールは72歳、デ・キリコは90歳まで生きている)。

 ヴュイヤールはともかくデ・キリコの絵は何らかの形で目にした人が多いだろう(ちなみにこれまではキリコ、キリコと呼び習わされてきたが、この人の名字は「デ」も含まれると解釈されてきたのか最近は「デ・キリコ」と呼ばれるようになってきた。戦後イタリアの初代首相だったアルチーデ・デ・ガスペリは昔からちゃんと「デ・ガスペリ」と呼ばれてきたのにデ・キリコのデが当たり前のように省略されてきたのは、貴理子とか桐子にも通じる語感の良さに甘えてのことかと勝手に思っていたのだが、よく調べてみるとデ・ガスペリのデは「De」、デ・キリコのデは「de」とディーの大きさが異なるようだ。この差は一体何なのか。そこにキリコのデが省かれてきた由縁が潜んでいるのか。イタリア語に詳しい方いませんか)。

 ひと気のない巨大な構造物、建物。いつも空は晴れていて、夏の暑さを思わせる陽気。遠く煙を上げながら汽車が過ぎていく。デ・キリコの絵と言えばそういう舞台装着がすぐ思い浮かぶ。

 この句もデ・キリコの絵から取材した。回廊を備えた大きい建物と、別の建物に挟まれた黄色い道を、体の半分はありそうな輪を棒で突っついて転がしていく影法師の少女がいる。不意に氷結されたかのように時間が止まり、世界はそのままとなる(あえて私はこの文を記憶と印象で書いているので実際の絵とは違うはずだ)。

 この絵のタイトルは何だか長ったらしい哲学的なものだったが、私は最初見た時から「広場の孤独」だと思った。これは堀田善衛の出世作のタイトルでもある。この「広場の孤独」は何回か文庫化されているが、表紙にあの絵は使われていないようだ。ぴったりだと思うのだが。

 ところで一人で遊ぶ子どもは自分を孤独だと思うだろうか。たぶん思わないだろう。だが人間にとって最大の孤独の姿の一つは、子どもが無心に一人遊びをしている姿である。

「彼は両親の留守に遊ぶ子どものように孤独だった」。小林秀雄の「モオツァルト」にこんなような一文があったのをよく覚えている。自分では全く意識しないが、他者からは手に取る如くわかる孤独。それはもはや「孤独」という言葉から外れた、別の何かのような気もする。

 走っている子どもの孤独な姿というと、アラン・シリトーの『長距離走者の孤独』を思い出さずにはいられない。感化院で育った少年は足の早さを見込まれて、同世代の少年達が出場する長距離走大会に参加。圧倒的な走りを見せるが、次第に自分の感化院の評判をあげたいがために彼を利用するつもりの院長の思惑に気づき、一番にゴールに差し掛かったがテープの直前で立ち止まり、院長にどれだけ急かされてもそのまま動かず、後から追い抜かれるに任せるのである。

 この小説を読んだのは高校生の時分だったが、清々しいような思いをしたと覚えている。大人の下卑た思惑にNoを突きつける強い意思。若者は忖度や駆け引きなど構わずに、自分の中の倫理に基づいて行動する。自分は胸の中に、はっきりそういうものを持っているのだと大人に示すために。唯一の自分を発揮するために、自分に対する他者の評価を切り捨てる孤独。これは孤独という名の勇気だ。

 デ・キリコの絵の影法師の少女は、もちろんこういう孤独感とは無縁だろう。あれはむしろ、自分自身で隙間なく充たされていることから来る、外から見なければ気づかない孤独の姿と言えようか。

 ところでデ・キリコは晩年になると若い頃に手掛けた作品をほぼ全否定したそうである。彼が画家として名をなしたあの作風に、複雑な感情を持っていたらしい。これもまた一つの孤独の姿か。案外あの走っている少女は、デ・キリコ自身なのかもしれない。

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