十薬や期待されざる日々を咲く

 十の薬とは何のことかと思われるやもしれないが、どくだみのことである。十種類の薬効があるから、などと言われたりもする。「十薬」以外にも漢字表記はあるが、スマホでは文字が出てこなかったので十薬で妥協した。あんまり好きではないが。

 どくだみの花は白い十字型をした小さな花で案外かわいらしいのだが、好きだと公然言う人はあまりいないだろう(ちなみに八重咲きのものもある)。「好きな花はどくだみです」などと大声では言いづらいものがある。私はそういう人は見たことがない。

 最近買った北大路翼の句集『見えない傷』には、


 十薬を刈らない庭は何かある


 という句があって面白く思った。確かにどくだみが抜かずに放置され満開になっている庭には「何かあ」りそうだ。死体が埋まってるとか。それはロコツ過ぎか。しかし臭い隠しにはちょうどいいかもしれず。

 そう、どくだみと言えば何と言ってもあの臭いである。私は子供のころ、自宅と隣家の間の敷地にどくだみが生えてくる度に除草をさせられたが、夏の熱気に煽られて引っこ抜くそばから立ち上るあのムッとする臭いはなかなか忘れがたい。どくだみの字を見るだけで臭ってきそうな気がする。桑原桑原。

 そんなどくだみは別に誰からも待たれる訳でもなく、期待される訳でもないのに咲く時が来れば咲く。ただ、咲いている。

 期待される人生と全く期待されない人生とどちらが幸福だろうか。期待されるのはありがたいかもしれないが、反面しごく面倒だ。他人の意思のドレイに成り下がってしまいそうな気もする。期待に応えよう応えようとそれだけが目標と化すのは自滅への大きな一歩だ。

 しかし全く他者からの期待とは無縁で鼻も引っ掛けられないというのもポカンとした感じで物足りなそうだ。褒められもせず苦にもされたくなかった宮沢賢治などはそれが理想だったのかもしれないが、凡夫はああいう心境にすぐなれるものではない。

 そんな時にどくだみの花を見ると、こいつはとにもかくにもいまこの瞬間を咲いていて偉いなあと思う。だがそんな感傷はどくだみには無縁だ。あの臭いを嗅がされて終わりである。

 昔誰かスポーツ選手だったか、「雑草のように」どうたらこうたらと言った人がいた。雑草のような粘り強さだか打たれ強さだか忘れたが、雑草にもいろいろある。踏まれれば踏まれるほど成長するオオバコもあれば在来種がほぼ外来種に駆逐されてしまったミミナグサもある。そういう細かいところまで考えてものを言わないところまで考えてものを言わないところがスポーツ選手なのかもしれないが、ここは「どくだみのような」という言い方も十分有効ではないか。

 無視されても言いたいことを言い続け、他人の勝手な期待なんか柳に風と受け流し、咲きたいように咲いている。

 同調圧力だの忖度だのという言葉が飛び交う社会の中で、どくだみのような生き方は案外しぶとくまかり通るかもしれない。主流から外れたところで。

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