だるさうな顔で卒業まで通す

 私の通っていた高校は進学校と呼ばれるような学校だった。だからなのか生徒はおおむね醒めた風貌の人ばかりだった。キャピキャピしているような人はいなかったし、制服を着崩している人もほぼいなかった。それどころか月に一度だったか「身だしなみ検査」があったのをよく覚えている。もっとよく覚えているのは、私の髪はやや色素が薄く、陽が当たると茶髪に見えなくもないので「これは染めているのではなく地毛です」と生徒手帳に書いて保護者に押印してくるようにと言われたことだ。

 今でもそんなことをしているのか知らないが、笑ってしまうような話である。学校という空間がいかに不可思議な代物であるかがよくわかる。私は反抗なんかするだけ面倒だというスタンスの人間なので、素直に書いてハンコをもらって担任に提出したのだと思う。

 その担任のことは陰で「平安美人」と呼んでいた。どんな顔だったかはお察しください。

 一年の時のクラスはまだ活気があったが、二年、三年のクラスは何というか独特な空気感があった。掲出句のような生徒ばかりだったのだ。平たく言えば一年の時の生徒より多少「勉強の出来る人たち」が多かったようなので、より醒めている率も高かったのかもしれない。

「高校デビュー」なんて言葉は今もあるのか知らないが、逆のデビューをする人もたまにはいる。つまり中学生の頃はみんなの輪の中心にいたのに、高校はあえて陰気に単独で過ごす、というような。いや、私がそうだったわけではなくそういう人を知っているのでもないが、掲出句の人はそんな人ではないかと思う。

「通す」という言葉からして、本人の意志でだるそうなキャラクターを演じていることがわかる。ということは、活発な自分の側面もまだ生きているのだ。それを表に出したい時もきっとあるのだ。しかし「だるそうな顔」で通してきてしまっただけに、急な路線変更は気が咎める。周囲の目も気になる。だからこのまま卒業までいくか。そんな、踏ん切りのつかないまま流れに乗って残りの月日を過ごすどこかの学生。

 ある意味でこれも若さである。私はまだ他人からは若いと言われるような年らしいが、自分では年齢以上に生きてしまったような気もする。

 しかしその自分と比べて、高校生というのは本当に若いんだな、と思えてくるようになった。あんなに若いのだから、もっと若さを謳歌するようなイキイキとした顔で歩けばいいのに。そんな感想も、街中や電車で目にする学生たちを見ていると浮かんでくる。

 だが本当に若い人は、自分が若いということには気づかないし、それを尊重しようとも思わない。その若さを鬱陶しく思う気持ちの方が強いのではないか。いまこう書いてみると、他ならぬ私がそうだった気がする。

 そんな風に気づいた私は、確かに若さを失っている最中なのだろうか。

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