麗らかや旅先で聞く自家全焼

 この間居住する街で火事があった。火事にはニュースになるものとならないものとがあるが、後でネットのニュースサイトを見ると、その火事が報道されていた。民家が全焼したのだが、幸い無人で怪我人はなかった。住人の男性は旅行中だったそうだ。

 つまりそういう出来事を男性の立場を想像してそのまま詠んだ句なのだが、こうやって一句にしてみると、いろいろと感慨が浮かんでくる。

 俳句は省略の美学、というようなことをよく言われるが、これなどその省略が残酷に働いているようなものではなかろうか。

 麗らかは季語だ。暖かな春となり、花が次々に咲き始めて身も心もなんだかウキウキしてくるような感覚を感じさせる。それは旅行中の(全焼した家の)家主男性の気分でもあろう。この人はもしかしたら独り身で、気ままなひとり旅をかけがえのない趣味として生きてきたのかもしれない。しかしコロナウイルス流行の世情となり、控えざるを得なくなった。もし感染したら頼る者を身近に持たない身が苦労するのは目に見えている。

 だが、ようやく新規感染者も減り、旅行も念願かなって復活できた。

 まさに「麗らかや」である。

 そこに飛び込んできた「自家全焼」の報。はてさて、男性はいかなる反応を示したのか。そしてその後どうなったのか。俳句は何も語らない。

 和歌であったら、この後の七七において男性の心情や行動を述べるのかもしれないが、俳句にはそれが許されない。それを許されないものとして受け入れる人にしか俳句は作れないのだろう。私はニヒルでペシミスティックな色彩の強い人間なので、この句を「和歌」にする気などさらさらない。しかし七七を加えなければどうしても気が済まないという人もあろう。その気持ちも全くわからないわけでもないが、やはり私はこれでヨシとするに違いない。

「俳句的人格」と「和歌的人格」というものがあるようである。

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