東京に心臓いくつ春の暮
年齢を重ねるにつれ自分の中の弱さが表に現れてくる。以前には考えもしなかった変化に否応なく向き合わざるを得なくなる。意外と自分は外的な急激な変化に弱く、脆い存在なのだと気づかされたのは、新型コロナウイルスが流行し始めた当初の頃だ。一言で言えば、私は未知の目に見えない感染症への恐怖で危うくパニック障害を発症しかけたのである。
今までそういうことは一度もなかったが、その時は心臓が自分では制御できない程急速にバクバクと鼓動し、その場に居ても立ってもいられず、体内で猛烈に蠢く何者かを振り払うためにどこまでも走っていきたくてたまらないような気分になったのだ。今はこうしてその時を振り返って冷静に書けるが、その瞬間は恐ろしくてたまらなかった。自分の体が全く自分を離れてしまったような感覚であった。後で調べてみて、どうもああいうのをパニック障害と言うらしいとわかった。
その日以来私はしばらくテレビのニュースを一切シャットアウトし、新聞のコロナ関連の報道も読まないようにした。とにかくあの頃は猫も杓子もコロナという感じで逃げ場のない日々のようなものだったから、私のような過敏な人間は報道に触れないことが結局一番だったのだろう。
その後も感染者が増えたの緊急事態宣言だのと社会がどこに向かっていくのか検討がつかない大きな不安の中で、たびたび私の心臓は動悸を起こした。それが始まると、どうにも落ち着かない。本を読んでいても仕事をしていても集中できない。胸の上から心臓を撫でたり押さえたりして、バクバクがやむのを待つしかない。電車の中で見た救心の広告が頭をよぎり、買って飲もうかとも思ったものだ。それどころかもしこれが電車の中で起きたらどうするのかという新たな不安も頭をもたげた。幸い電車通勤ではないから差し迫ったものではなかったが、本格的にパニック障害になったら他にも支障の出る場面はあろうから、とにかく過敏に反応しないよう注意して毎日を送らなければいけないと思った。
そういうことが度重なるにつれ、妙な話だが、私は自分の体には確かに心臓があるのだ、ということを意識するようになった。今までは心臓の存在をはっきり認識したことなどなかった。心臓は生きている限りは当たり前のように動くもので、いちいち鼓動の間隔や強さを気に留める必要など感じさせないものだったのだ。
心臓に持病があったり、生まれつきや何かの事情で人より弱いという人は、1日に何度も心臓を意識することだろう。今日は調子がいいが、昨日はそうでもなかった。明日はどうかわからない。そんな不安と常に背中合わせなのではないか。
私が心臓という言葉を織り込んだ俳句をいくつか作ったのは、言わば心臓にまつわる不安を自分の外に出し、対象化したかったからだ。
みぞれの
は、多分最初の一つだったと思うが、この心臓が踊りだすとはまさしく動悸が始まるということである。みぞれが降るような寒い夜に動悸が始まったという記憶はないが、一人で踊っている心臓を押さえている孤独感をより引き出したかったのではないか。
その後結局私もコロナに感染したのだが、動悸など起こらなかった。発熱と喉の痛みに苦しめられたが、心臓は何事もなかったように動いていた。意識することもなかった。案ずるより産むが易しとはやや違うが、やはり不安感が作り出すイメージと実際のそれとは隔たりがあるものらしい。今では動悸が起こることはない。だからこそこうして他人事のように書けるようになったのだろう。
掲出句はこの間都内に出た時にふっと思い浮かんだものだ。
ふと調べたところ、東京の人口はおよそ1400万人だそうだ。いすぎである。それにしても、「東京には1400万人人間がいる」と言うより、「東京には1400万個の心臓がある」と言ってみると凄味がなくはないだろうか。それだけの数の心臓が日夜それぞれの速度で動いているのだ。それを持った人間があちこち移動しているのだ。言わば1400万個の心臓が蠢くのが東京という街の正体なのだ。その中には今日を境に動きを止めるものもある、今日から新しく動き始めるものもある。あの時の私のように不規則な動きをして持ち主をハラハラさせるものもある。もちろん日本全国、いや世界中としたらもっと心臓の数は膨大になるのだが、範囲を東京に限っても、何か途方もない感覚に襲われたのだ。それは、膨大な数の生命に対する畏怖の感情めいたものだろうか。
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