春一番裂きますこの裁鋏で

 自由律俳句にはどうも抵抗がある。いや、私は俳句のしかつめらしい権威ぶった決まりごとは無視したい方向の人なのだけど、やはり(原則としての)十七文字には則りたいのだ。それは俳句の伝統を守るとか決まりだから従うとかいうのではなくて、定型詩は口にした時の調子やリズムの良さも含めた芸術だと思うからである。

 日本語は韻を踏みづらい言葉であるとよく言われる。だから西洋の詩のように脚韻を踏んだ詩文を作ることは不可能に近い。つまり韻文詩の味わいを翻訳でなく原文で堪能するという快感を、我々は最初から持たないわけだ。これは一つの共通言語を持つ民族としては不幸なことであろう。その代償を和歌や俳句(俳諧)といった定型詩が果たしているのではないか。そう私は以前から考えているのだ。

 これは私自身、俳句を読んで楽しむ中で、そもそもなぜ自分は俳句を面白いと思うのかと考えた時に突き当たった一つの理由だった。気分のいい時に、街中を歩いているさなかに、好きな俳句を頭の中で思い浮かべて、小声で呟く。それだけで、何とも言えずいい感じになる。例えば秋の空が清々しくて広広と見える時に、飯田龍太の特に好きな一句


 去るものは去りまた充ちて秋の空


 を思い浮かべると、なおさら空が大きく、高くなったように感じられる。それは、十七文字という短すぎず長すぎず、また日本人であれば少なくとも学校教育の場などを通して子どもの時分から馴染みの深い定型の持つくっきりかっきりとしたリズムのおかげによるところが大きいと思う。

 それに私は記憶力があんまりよくないので、定型ならざる詩はどうも覚え切れない。茨木のり子の「根府川の梅」を覚えよう覚えようとしているのだが、どうもダメなのだ。和歌ですらなかなか覚えられない。サラダ記念日が何月何日だったか、何回も読んだはずなのに忘れてしまう。ああ無情。

 自由律俳句とは要するに、十七文字の定型より長くするか短くするかということであろう。すぐ思い出すのは尾崎放哉の


 咳をしても一人


 で、これは俳句かどうかという以前に圧倒的な説得力を持つ名句(名言と言っても良さそうな気がするが)だ。これ以上短くしようがないぎりぎりのラインで、誰もが経験しよう孤独を描写しきっている。

 しかし自由律俳句でここまでの完成度を持つものはかなり少ないと思う。はっきり言って大抵の自由律俳句は駄作である。尾崎放哉の句だって、私にはよくわからないものが多い。よくわからないから駄作だというのは暴論かもしれないが、定型の駄作はまだ定型であるという点で辛うじて救いがあるが(といってつまらない作品を愛誦することはまずないが)、自由律でつまらない作品というのはもはや何とも言いようがない。大体自由律俳句は評価の基準がよくわからない。実際どこをどう評価するのが適当なのだろうか。評価なんてそもそもないのだろうか。

 荻原井泉水とか中塚一碧楼いっぺきろうとかいう人は「長い」自由律俳句の人で、私にとっては縁なき衆生という印象が強い。自由律と言えば種田山頭火はどうなのかという話に当然なるが、この人もまたあまり私の興味をそそらないのである。むしろ丸谷才一の『横しぐれ』の方が圧倒的に面白かった。

 ただ一つ思うのは、尾崎放哉にしろ種田山頭火にしろ、ああいう尋常ならざる一生を送った人であり、それが作品に特異性を加えたことは否定できないだろう。言わば「自分の人生をかけて」表現している(ように見える)ことが、彼らの作品が定型を逸脱した俳句であるという点を越えて広く普遍性と共感を獲得している理由だと言えると思う。逆に言えば、彼らほど凄まじい人生を送っているわけでもない普通の生活者の自由律俳句は、よほど独特の観察眼や視点を持ってでもいない限り、「締まりのない生活報告」に堕してしまいがちなのではないか。それなら俳句じゃなくてただのエッセイとしても良さそうなものである。

 自分の経験や観察を表現として完成させることを「昇華する」というが、これはやはり定型詩ならではのものと思える。先ほど飯田龍太の「秋の空」の句に言及した時にくっきりかっきりしたリズムということを書いたが、これはこの作品が定型の波に乗って作者の思いを上手く「昇華」させているからこそ感じられるのであって、何となく始まって終わる感想のような自由律俳句ではこういう感覚を味わうことは難しそうだ。もちろん「咳をしても一人」のように自由律でも確かに何かが「昇華されている」と感じられるものもあるのだが。


 あれは結局高柳重信じゅうしんが創始者ということになるのだろうか、俳句の表現技法の一つに、五・七・五を一行ではなく三行に分けて書くというものがある。

 また富澤赤黄男かきおが始めたと言えるのか、一行句の途中で一マス(一語分)空白を置くというやり方もあるが、どちらも私は好感を持てない。

 こういうやり方とはつまり、俳句をビジュアルの側面から見る捉え方によるものだろう。そして言わば一句を一枚の「絵」として見た上で、それぞれのやり方を通して一句に余韻を持たせようとする意図があるのだろう。

 行分けの場合は、一行ごとの行間に、その一句が掬い切れなかった情感や風景を見ることを促す。落とし穴のように一句の途中に置かれた空白にも、おおむね同じような感覚を持たせようというのだろう。

 しかし私に言わせれば、余韻というものはその一句を実際に目にしている時には起こらないものである。むしろ時間が経って完全に忘れたあと、何かの拍子にふっとその句を思い出した時に彷彿とやってくるものだと思う。そういうことは今まで少なからずあった。

 そういう余韻という装置を一句が持てるものならば、行分けされていようと空白が置かれていようと、結局はそうでない句と同じことのはずである。

 またこういうやり方を始めた(らしい)のが両方男性の俳句作者である点も私には引っかかる。この二人が俳句の世界に自分の存在を留めたいという功名心がこれらの技法の背後になかったとは言えないだろうか。実際いまこういうやり方の俳句を作れば、ほぼ間違いなくこの二人の模倣ないしは亜流と見なされるだろう。

 あまり男性/女性という区分けでモノを見たくないのだが、私は傾向として男性作者の俳句は好まない。「名句を詠んでやった」という下心が見えやすいのは明らかに男性句である。俳句を知識で読み解こうとするのも大体男性である。こんなに短い世界なのだからもっとストレートに自分を出せばいいのに、技法の背後に自分を隠そうとするのもおよそ男性である。しかしそれは、もともとさらけ出す程の自己を持ち合わせていないということなのだろうか。


 つまりは私にとって俳句とは言葉であって、ビジュアルではないということになる。


 例句の解説がまたお留守になってしまったが、これは作者自身何と言ったらいいのか、「不思議ちゃん」めいた一句だ。

 これはまず俳句と言えるのかどうか微妙だが、語数は十八文字であって、わずかに字余りだ。季語もある。だがどこで切るのかよくわからない。


 春一番裂きます/この裁鋏たちばさみ


 春一番/裂きます/この裁鋏で


 のいずれかだろうが、多分前者だろう。

 春一番というと春の訪れを告げる使者といった詩的な受け止め方をされるかもしれないが、要するに暴風である。冬には嵐が丘もかくやと思われる程のどうしようもない暴風烈風狂風魔風に虐げられる土地に住んでいる私からすれば、ちっとも詩的ではないしそんなもの吹いたって嬉しくない。だから風を切り裂けるような大きくて鋭利な裁ち鋏でも手にして、風に向かってY字に刃を開き、真っ二つに裂かれた風が自分の脇を通り過ぎていく光景を見たい(風は不可視だが)などと思ったのが作った動機だ。こういう気持ちは視線の先に山がよく見える盆地に住んでいる(いた)ことのある人には理解してもらえるだろうか。

 しかしどうやってもこの句は五・七・五には分けられない。自分で散々いちゃもんをつけておきながら私も自由律を作ってしまったのだろうか。十七文字でも五・七・五に分割できないならそれは自由律となるのか。例えば種田山頭火のよく知られた


 分け入つても分け入つても青い山


 も一応十七文字だ。

 そういえばこの句は最初からこういう形になるはずではなかったのである。

 春一番の後は、もう忘れたが「裂き」だか「裂く」なんとかというもっと座りのいい言葉を置くはずだった。それがスマホのメール編集画面で(私は紙に下書きした草稿をメール編集画面にうちだし、それをカクヨムの編集画面にコピペする形で書いている)「裂」までうった瞬間、予測変換候補に「裂きます」と出たので、何の気なしにそれをそのままあてはめたところ、何となく十七文字でいけそうなので、これで良し、としたのである。

 つまりこの一句の作者の三分の一は、私ではなく私のスマホなのだ。

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