汗一条男が夫(つま)といる夜更け
俳句とは一体何のために何を詠むのだろうかという疑問が常にある。自分の俳句(まあ本当に私が作っているのが俳句と呼べるのかどうかはともかく)を顧みると、これらは自分の中の毒素を排出するために作っているものだろうという認識がある。その内容は何気なく目にとまった現実の風景や情景のやや斜に構えた描写だったり、心象風景や不穏な妄想の表出だったりだ。私は他人の俳句を鑑賞する時にも、そこにストーリー性を見出だしてあれこれ想像しては楽しむというパターンの人間なので、自分の作る「俳句」も多分にそういう要素が濃いはずだ(最近特に気に入っているのが山下知津子の俳句で、句集がとても欲しい)。
だが俳句にはストーリーなど不要で、要するに描写が全てだという考え方も根強い。恐らくこっちが主流なのだろう。いわゆる「格調の高い俳句」というのは大体において描写の俳句なのだと私は最近会得した。「俳壇」というところで評価されるのもこういう俳句なのだろう。そしてこういう俳句を作る人たちは、「季語」に大変な蘊蓄を傾けるらしい。「この季語はこういう意味合いを持っているのだからこういう文脈の俳句で使うべきだ」ということに拘るらしい。また「切れ字」というものにも精力を注ぐらしい。これは私にはいつになってもよくわからない。
こういうところから俳句における「権威」といったものが生まれるのだろうが、文芸においてもっとも無用かつ無価値な存在が「権威」であることは言うまでもない。
まあ、確かにそういう高い意識のもと作られた俳句を読むと、なるほど美しいなあと思うし、そういう見方もあるのか、と頷かされることもあるのだが、結局はそれだけである。こういう俳句を後になって何気なくふっと思い出し、改めて余韻にひたるということは滅多になく、むしろ感心してその場で忘れてしまう(例えば鷲谷七菜子の俳句をまとめて読んだ時にまさしくそう感じたものだ)。
端的に言って描写中心の俳句は文学ではないのだ。文学ではないとは、つまりストーリーがなく、さらに闇がないということである。また、作者がその一句を作った必然性というか、何かしら読んでいるこちらまで身につまされてくるような感覚がない。これらの俳句は例えるなら美術大学を優等で卒業し、画壇で然るべき地位をなして文化功労者とかになった画家の描いた、お行儀の良い静物画のようなものだ。それはそれでいいのだろうし(私は別にこういう俳句を悪く言うつもりはない)、好む人も多いのだろうが、私としては腑に落ちないのだ。結局こういう俳句とは「正岡子規・高浜虚子系列」に連なっているのだろうが、こういう人たちの後塵を拝して静物画的描写俳句をいくら作ったところで、永遠に屋上屋を架していることにしかならないのではないか。そんなことをいつまでもしていて面白いのだろうか。その人の自我とか表現したいという欲求は果たしてそれで満たされるのだろうか。それともそういうものの全然ない人が喜んで携わっているのが静物画俳句なのだろうか。
俳人は「文学者」ではなく、あくまでも「俳人」なのだろうか。
この種の静物画俳句の特徴は、時代性がないことだと思う。
鶏頭の十四五本もありぬべし
この正岡子規の句は、別に21世紀の誰かが作った句だとしても違和感はない。明治時代だって令和時代だって、鶏頭が十四本か十五本ある光景は普通に存在する(した)だろうからだ(ところでなぜこれが名句とされているのか私にはちっともわからない)。
だからこそ、描写俳句を今に至るまで作り続けて何の意味があるのやら、と素人の私は不思議に思うのだ。いや、時代など超越しているのが俳句の良さなのかもしれない。優れた表現に現在も過去もないのかもしれない。そうだとしたら、そういう理屈にも一理あると思う。
そうは言っても、現代に生きている以上、あらゆる表現に「現代性」は避けられないはずだ。俳句における現代性とはどういうところに発するのか。カタカナ言葉が差し込まれていれば現代的なのか。口語体ならば現代的に見えるのか。
それは「俳句は何を詠んだらいいのか」ということに結びつかずにはいないはずだ。これが短歌なら、こういう疑問はあまり意識されないのではないか。文字数が俳句の倍あるので、情景描写や説明も細かく織り込みやすい。自分の感情もストレートに繊細に読み込める。当然そこには今を生きる人間ならではの感性が宿る。現代の短歌と、百人一首の短歌が全然違うのは一目瞭然だ。
ところが俳句はなぜかそうはいかない。一番わかりやすそうな例で言うと、芭蕉の俳句には明らかに現代にそのまま通じるものがある。
さまざまのこと思ひだす桜かな
この道や行く人なしに秋の暮
どちらも私の愛誦する一句であり、現代人にもすぐ理解できる普遍性を持った名句だ。
しかし逆に言えば、芭蕉が既にこういう俳句を作っているのなら現代の俳句作者は一体何を詠んだらいいのかということになるはずである。芭蕉や子規や虚子にはどうしたってかなわないのだから、そういう人たちのような俳句を何の疑いもなく作り続けて、おかしいと思わないのだろうか。
私も描写じみた「俳句」を作ってはいるが、季語などアリバイ的に挿入しているだけなので、「格調高い俳句の世界」の人からすれば、首をかしげるだけの代物しか作っていないだろうと思う。
もっとも描写中心の俳句といっても、そこに作者自身の「私」が多少なりとも付加される場合も多いので、本当に純粋な静物画俳句はそんなに多くないのかもしれない(例えば石田波郷の「七夕竹惜命の文字隠れなし」は見たままそのままの描写句に見えるが、波郷の人生と重ね合わせるととても味わい深い名句と思える)。だがそこまで話を広げると厄介なので、これ以上は触れない。
私は俳句の世界に俵万智や穂村弘に匹敵する人がいないのをかねがね不思議に思っている。夏井いつきという人がこの頃テレビによく出ているが、あの人は実作より反射神経とキャラクターで売っているようにしか見えない。この人の俳句が『サラダ記念日』と同じレベルで認知されているとは言えないだろう。私は不勉強もあろうが彼女の俳句は一つも知らない。ついこの間、文春文庫で神野紗希のエッセイ集が刊行されたので、この人は先の二人の俳壇バージョンとして認知されつつあるのかもしれない。が、『サラダ記念日』は1987年の刊行だ。俳句よ、あまりに遅いのではないか。
神野紗希の俳句を私はまだよく知らないのだが、「描写中心で格調高い」という感じの俳句ではないようだ。もっとエッセイ的な俳句というか、多分に俵万智的な俳句なのかもしれない。
しかしこの人が出てくるまで、似たような人はいなかったのだろうか。日常の気付きをエッセイ風に収めてはいけないのが俳句なのだろうか。あまりに卑近な内容だと川柳になってしまうから、それとは明らかに区別するために描写中心ということになったのだろうか。
むしろ川柳は社会風刺とか政治風刺という色合いが強い世界だと思う。それに関して言えることは、俳句には社会性というものもない。時代性が薄いのと同じことだ。短いからいろいろなことは盛り込めないのだ、ということかもしれない。が、それにしてももう少し、やりようがある気がしてならない。今までに何千何万という(有名無名の)俳人が足を運んだところに「吟行」して、同じような静物画俳句を延々と量産し続けることに、誰も何の疑問も持たないのだろうか。それとも「これなら自分にも作れる」というお手軽な達成感を得たいがために、結局はお手本と同じような俳句ばかり出来上がってしまうのかもしれない。なるほど、俳句が生け花や陶芸に例えられるわけである。
俗に俳人は長命だというが、本当に長命な人が多い。平気でみんな80代90代まで生きている。そして大抵生涯現役だ。もちろん長寿は結構なことだが、ということは元から俳句は平均年齢の高い文芸ということになるのだろう。むしろ年齢と共に作風が円熟を増すことを求められる分野なのだ。従って俳句に早熟の天才は不要なのである。だから名の知られた「若手」と言われる人もおおむね30代以上だ。高柳克弘のようにたまに20代で出てくる人もいるが、短歌や詩や小説の分野と比較すれば恐らく物の数ではない。その辺も、俳句が奇妙に時代と無縁に存在しているように見える一因ではないだろうか。神野紗希という人は例の「俳句甲子園」から出てきた人のようなので、ちょうどこの人が一般大衆的な文春文庫というレーベルから本を出したという事実が、一つの転換点になるのかもしれない。
いろいろとまとまらない御託を並べてきたが、さて掲出句である。
俳句においてちゃんと詠まれてきたのかどうか私が疑問としているものに、同性愛がある。恐らく江戸時代の川柳や狂歌の類では、陰間や若衆を詠み込んだ作品が普通にあるはずだ。俳句はどうだかわからない。あまり風俗誌めいた作品はなかっただろうからだ。
ところで江戸時代の男同士の関係性とはいま言う同性愛とはまた別だと思う。あの時代の男に惹かれる男の大多数は女が無理というのではなく(当然そういう人もいただろうけど)、性別の区分にこだわりなく美的に惹かれるものに本能的に惹かれていただけのことだったと私は思っている。江戸時代の春画を見ていると、「男×男+女」という構図のものもあって、その奔放ぶりは爽快なくらいだ。いま言われているような同性愛という概念はたぶん明治以降のものだろう。
つまり明治以降の俳句に同性愛的状況や雰囲気を取り上げたものがあるかどうかという話だが、なさそうな気がする。せいぜい「文人俳句」と呼ばれる系列で誰かが作っているかもしれないという程度ではないか。専門の俳人にはちょっと期待できそうではない。大体名の知れた俳人で同性愛者(ないしはそういう傾向のあった人)はいたのだろうか。その辺の突っ込んだ研究ってないのか。
「夫」と書いても「つま」と読む。俳句独自の読み方ではないようだ。男に「夫」がいるのだ。静かな夜更け。一筋の汗が体をつたう。どちらの体なのか。二人の汗が融合して一条の流れになっているのか。愛を交わした後なのかもしれない。二人は目覚めているのか、まだ起きているのか。眠れない暑い夜をぽつぽつと会話を交わしてやり過ごしているのか。このまま朝を迎えるのか。
どう読まれても構わないのであって、作者自身いろんなストーリーをこの句から思い浮かべている。はっきりと限定されない状況で、素性不明の人物が動いている。それは見たままの描写でも何でもないわけだが、結局私にはこういう俳句が一番性に合っている。しかしこれは俳句ではないかもしれない。では何なのか。
「俳句」という名称は「俳壇」的な俳句に限定し、もっと自由に想像の羽を伸ばして楽しむタイプの「五・七・五の定型詩」には、別の名前を与えた方がいいのではないか。「五七五詩」とか。野暮な名前だ。
ここで書いてきたようなことは、私が言い始めたことではないだろうが、自分の考えを可視化したくて書いたのだ。
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