地球儀にマグマは入っていない春

 俳句とは「そんなこと当たり前じゃんいちいち言う必要もないじゃん」というようなことをわざわざ表現して、そんな当たり前なことでもなぜか詩的な雰囲気をまとってしまうことに妙味を味わうというかなり屈折した文芸だ。だからそこに特段詩趣を見出さない人にとって、俳句など刺身のパックについているワサビが梅の形の小さな容器の上に乗っかっているのと同じくらいどうでも構わない代物であることだろう。

 そういう感覚もわかるのだが、「わざわざ口に出さなくても当たり前なこと」を人がどれほど意識しているのかは極めて怪しいところで、そういったものが俳句として表現されることがそれに触れた多くの人の意表を突いた結果、彼らの日常を微妙に奥行き深くするという見過ごせない作用をもたらすのも否定できないところだ。これが桑原武夫に断罪されたくらいで俳句が消滅しなかった理由の一斑だと私は思っている。俳句なんてあってもなくてもどうでもいいつまらないお遊びかもしれないが、消えそうで消えない下らないタレントのごとくちょっとやそっとでは揺るがないのである。

 掲出句は何となく作ったものだが、まあ当たり前のことだ。私は地球儀という「モノ」が好きなのでそれを読み込んだ句を作ろうとした結果、これが出てきた。

 市販の地球儀は、要するにどの位置にどの国があるかを知るために必要とされるものだから、ふつう、中は空洞だろう。ただでさえ大きな品物だから、せめて中身は空っぽで持ち運びやすい方がいい。もっとも地学とか物理学?の分野で使われそうな、中がパカッと開いてプレートテクトニクスの原理を一目で解説したりマグマの温度を赤やオレンジの色の濃さで示したりしているような地球儀もあるかもしれない。しかし一般的ではあるまい。大抵の地球儀は、ナミビアの首都や南回帰線の位置を知りたい人のためにある。その点では正確に実際の地球を模したものには違いない。

 だがその中は空っぽだ。本当の地球の内部にはマグマが渦巻いているはずなのに、ほとんどの地球儀にはその模型は入っていない。春だろうが夏だろうが地球儀の中は空気が入っているだけだ。所詮はニセモノの地球なのだ。それが何だというのかと言われても、私には答えようがない。その答えられないところが結局、俳句の肝なのだろうか。

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