正夢の夜空なつかし春隣

 春隣という言葉が強く印象づけられたのは、熊木杏里の「春隣」なる曲を聞いてからだ。12年くらい前にラジオのCMで流れていた。これが季語だと知ったのはそれより後のことだったと思う。だが熊木杏里がこの曲で歌う「春隣」の言葉のニュアンスは、俳句で使われるそれとは微妙に違っていると感じた。しばらくこの曲を聞いていないのでどこがどうとは言えないが。

 ある意味でこれは便利な季語である。具体的な状況や場面を表すのではなく、春がそこまで来ているという漠然とした雰囲気を意味しているからだ。

 つまりどんな突拍子もない状況を読んでも、最後に「春隣」と置けばそれで一句が成立してしまう懐の深さ(と裏腹の安直さ)を持った季語である。俳句のビギナーでも使い安く、「自分にも俳句が作れた」という気分にさせるためにも手頃な言葉だろう。私がまさにそういう人間であった。


 誰かどこかで何かさゝやけり春隣


 この久保田万太郎の句は「春隣」句の中でもっとも有名なものの一つだろうが、まさにこの季語の持つ性質を最大限生かしている一句ではないか。「何一つ具体的なものを読んでおらず、描写がない」という批判もあるらしいが、もともと季節の変化とは体全体で感じるものだから、何か一つのものの描写に還元できるとは限らない。少しずつ日が伸びて、虫が飛ぶようになり、草木が芽吹く日々に、目には見えない「お春さん」が一歩一歩近づいてくるような感じがするのだ。

 私は寝ていてしょっちゅう夢を見るが、正夢を見た覚えはない。夢で同じ場所に二度行ったことはあるが、それは現実のどことも違うものであった。

「正夢の夜空」というのであれば、いずれ現実でも見たはずなので、別になつかしむ必要もなさそうなものだが、そこに「春隣」という季語が置かれると、時間軸があやふやになったような印象を受けるから面白い。正夢が現実となって見た夜空より、正夢そのものの中の夜空の方がきれいだったのだろうか。

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