蒼天に象眼されし枯木かな
文章を書いていたり、まあ俳句を作っていたりすると、自分の中にこんな語彙が眠っていたのかと驚くことがある。他人の文章や本や新聞記事なんかから得たのだろうが、いつから自分の中にその語がストックされていたのか推測すらできない。この句で使った「象眼」もそうである。
無意識のうちに人はたくさんのことを覚えるようで、逆に意識して同じことをしようとすると往々にしてうまくいかない。前に小林秀雄の何かの文章を読んだ時「活写」という言葉が出てきたのに妙な感動を覚え、これはいつか文章を書く機会に使いたいものだと密かに決めたのだが、今に至るまでそういう機会はない。
私は公園と植物園の合の子みたいなところに勤めているので、日常、植物に触れる場面は人より多いはずだ。それが俳句に興味を持つ契機になった訳ではないのだが、日々目にする草木や花から詩趣を得ていることは間違いない。
この句のモチーフはいつ頃から持っていただろうか、園内にはラクウショウとかメタセコイアとかいう20メートル級の落葉高木があり、遠くからそれを眺めている視線である。
初めてこの句を見る人は、「枯木」とはケヤキやイチョウではないかと思うかもしれないが、私に言わせればそれらではずいぶん物足りない。ことにラクウショウのような木は樹形がきれいな二等辺三角になるので、いっそう空にぴったり収まっている感じがするのだ。イチョウやケヤキも高いものは高いが、さほどきれいななりをした木という感じはしない。
この句にしてもそうだが、私は空を見上げる句をよく作っている。空も雲も昔からとても好きだ。ボードレールの「悪の華」には、私がなりたいものは雲だ、という有名なフレーズがあるが、100年以上前に同じようなことを考えていた人の存在に、一読して感じいった記憶がある。
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