わが句帖補遺

佐伯 安奈

木枯やされど自裁は彼のもの

 2020年に角川ソフィア文庫から刊行された『飯田龍太全句集』を持っている。三年前はまだ俳句にそれほど強い興味はなかったが、この作者の句はわりと好きだったし、長く手元に置いておけそうだから買ったのだ。

 これだけ名の知れた人の句集であっても、いいなあと思える(印象づけられる)句はそう多くはない。通読しようとしたこともあったが、大体10ページと読み続ければよくわからなくなる。飯田龍太だけでなく他の俳人の句の場合も同様だ。一日中句集だけに向き合う読書というのは俳句に慣れた人でもかなりこたえるのではないだろうか。ことに拾遺に部類されている作品群は、作者自身そういう扱いをしたこともあってかあまり出来がいいとは思えない。よほどのファンでなければ拾遺までは読み尽くさないだろう。

 もちろん素晴らしいなと感嘆した句も多かったが、中で二つ、「自裁」の文言が挟まれたものが、とりわけ異様な印象を残した。


 雲夏に入るや自裁は謎のまま


 雪解風またも自裁は謎のまま


 前者は1978年作(『今昔』所収)、後者は1983年作(『山の影』所収)。「ゆきげかぜ」と読むのだろう。

 自裁というある種衝撃的な言葉の読み込まれた句が一般に多くあるのか、私は知らない。

 前後関係はよくわからないが、両方とも実際に作者の身辺で起きた自裁を取り上げたのだと思われる。前者には「青光会物故者追悼句会」と前書があり、俳人仲間の自裁だったのだろう。

「自殺するやつは馬鹿だが自殺願望を持ったことのないやつは阿呆だ」という意味の言葉を横光利一が言ったそうだが、私はこの言葉に何となく共感する。一体に、人は自殺者を前にしてどんな反応をするものだろうか。私の身近には人身事故のニュースを聞くたびに「生きていたい人もいるのに」と非難がましいコメントを放つ者がいるが、つまり生きたい人は生きたい人であり、死にたい人は死にたい人である。死んでしまえば戻って来ないのだから何を言ってもムダだし、自殺者がもっとも嫌うのはこのパターンの人間ではなかったかとも思える。要するにこういう反応は、自殺というありふれない出来事に対する無意識の動揺を隠そうとする心の作用と見るべきではないか。そして案外こうした殊勝な発言をする人があっさり自殺したりもするのだ。

 二つの「自裁句」を見る限り、飯田龍太は自殺者の内心への立ち入りや、その行為の是非の判断を留保するタイプの人だったと思える。そういう抑制された姿勢はこの人の人間性や作風にも通じていそうだ。「謎のまま」と同じ言葉を下五に置いていることから、自殺者に対してはこういう姿勢を取ることを、内なる規矩として早くから定めていたのかもしれない。飯田龍太の経歴を見れば、彼が若くから肉親の死(兄弟の戦死やのちには娘の逆縁)を多く経験してきた人だとわかる。

 飯田龍太のような態度を取る人に、私は敬意と人としての望ましい成熟を感じるが、ちょっと物足りないのだ。

 私は自殺した人が何を考えてそうしたにしろ、それはその人の残した一種の遺産だと思う。少なくともその人はどうしても死にたかったのだというどうしようもない意志は、否定しようもない。自殺とは、自殺者の遺した作品ではないかとも感じている。

 年齢によって自殺に対する態度は変わってくるはずである。もちろん性格にもよるだろう。正宗白鳥は78歳くらいの時の「文学者の葬式」という一文で、「自殺者の葬儀に列すると自分は羨ましさを感じるかもしれない」などと言っている。いつやって来るかどんな風に迎えるかわからない死に脅えるくらいなら一思いに、と考えはしても、実行するのとは訳が違う。だからあっさりそれをしとげた人への羨望の念も生まれるのだ。白鳥みたいな人はわりと珍しくないのかもしれない。

 何かがうまくいかないから人は死を願うのだ。外面的に好調に見えたとしても心の中の川に梗塞のようなものが出来ていて、それは心にもない笑顔を浮かべるたびに拡大していく。

「生きていればいいことがある」と言う人もいるが、そんなの分かったものではない。どんどん悪くなっていくかもしれないし、大体自殺を思うほど追い込まれている人は自分が客観的に「いい」状態にあるとしてもわからないのではないか。

「されど」という返しの一言は、あくまで謎は謎のままに留めておこうという飯田龍太的姿勢への切り返しとして置いた。

「自裁は彼のもの」とは乱暴で非現実的な言い方かもしれない。「生きている時に死は存在せず、死んでしまえば生は失われる」とアナトール・フランスが言っている通り、死をものとして所有することは誰にも出来ない。だが私は、明らかに個人の強い意志が働いた結果である「自裁」という事実は、その人を知っていた人々の心に、消せない波紋を投じた石みたいなものだという意味で使ったのだ。その石は「彼という存在そのもの」の化身と言ってもいいだろう。

 ちなみに「彼」とは特定の誰かを指しているわけではない。

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