漆
漆
しばし留めむ 我の
音も、匂いも、灯りもない。ひとりきりの、一本の坂道。
やがて、大きな門の前に行き着いた。見上げても、門の上部は闇の先で見えない。
柊哉が近づくと、門は、ひとりでに、ゆっくりと、内側へ開いた。
門の向こうは、さらに深い闇。光のない、
ゆらり、と、門の奥から、黒い影が現れた。黄泉の使者だ。人の形をしているが、顔はない。白木の
使者の後ろから、長い影の腕が、幾本も、触手のように伸びてきて、促すように柊哉を囲う。影の中に取り込むように、呑み込むように。
柊哉は静かに、杯に手を伸ばした。そっと取り上げ、目を落とす。
悔いはない。願いを叶え、望みを
楓真は生きる。生きられる。柊哉の願いの先へ、
微笑んでいられた。最後まで、楓真の前で、微笑んでいられた。兄でいられた。
望むことは、もうない。願うことも、もうない。望みも、願いも、満ち足りた。
それなのに。
そのはずなのに。
「……どうして、私は……」
「こんなにも……寂しいのだ……」
柊哉の声が、雫のように、震えて落ちる。
独りの声。
独りきりの声。
瞬きながら落ちていく、星になれなかった願いの欠片のように。
届く先のない、胸の内に秘めたままの心の雫。
「……さよならだ」
兄であった自分に、別れを告げる。
目を伏せ、柊哉は
柊哉が、静かに、神酒を飲み干そうとしたときだった。
ふわり、と、
「……桂花……?」
小さな
はらはらと、柊哉の上に、振り
柊哉に絡みついていた影の触手が、波が引くように、柊哉から離れた。続いて
桂花の降る源を、柊哉は見上げた。けれど、頭上には闇が広がるばかりで、何の姿も見えない。それでも、確かに、感じた。感じられた。幼い自分が、かつて求めてやまなかった、懐かしい温もりを。
「……母上……?」
桂花の最後のひとひらが、柊哉の頬を、そっと撫でる。
声が聞こえたのは、そのときだった。
「兄上!」
柊哉の背中に、届く声。
ここにはないはずの声。
どうして……。
振り返っては駄目だと、思うのに。
早く
「兄上……!」
坂を駆け下りて。
追いかけて。
楓真は。
弟は。
「兄上……っ!」
呼んで。
手を伸ばして。
「……楓真……っ」
柊哉の手から、
微笑とは遠い色のままで。
求める心のままに。
振り返る。
まなざしが、重なる。
瞳に映り合った互いの顔は、同じ表情をしていた。
伸ばし合った腕が、届く。飛び込む。抱きしめる。強く、強く。
「
震える声で、柊哉は言った。
「何故、私を追った……!」
楓真の体は温かかった。
追い返さなければ。
楓真を
「……兄上」
温かい楓真の腕が、柊哉の背中に回っている。幼い頃は届かなかった腕が、今、柊哉を確かに、抱えている。
「……やっと……」
柊哉を強く抱きしめて。
「やっと……兄上に追いつきました……兄上の背中に、追いつけました……」
楓真の声が、滲んでいく。重なる頬に、温かな雫が伝う。
「一緒に帰りましょう、兄上…………言ったではありませんか……ふたりで、いてほしいと…………」
いつかの雨の日が、
――独りに、ならないでください。
柊哉に差しかけられた、楓真の傘。
精一杯、背伸びをしても、柊哉に届かなかった、小さな手。
それが今、届いている。柊哉を抱え、温もりを与えられるほどに。
――兄上が独りだと、私は悲しいです。
星の流れる夜空のように。
切なる願いを瞬かせて。
――独りに、しないでください。
弟がいたから、兄でいられた。
兄がいたから、弟でいられた。
――兄上がいないと、私は寂しいです。
独りと独りでは、微笑めなかった。
兄弟になって、ふたりになって、初めて笑い合えた。
――独りにしませんから、独りにしないでほしいです。
「兄上……私は、もう
二度と、心が、砕けてしまわないように。
「……楓真……」
柊哉の胸の奥で、心が形を取り戻していく。ずっと昔に割れて散らばったままの心の破片が、楓真の言葉を
「もう一度、願わせてください、兄上……」
いつかの願いを、もう一度。
「私に、叶えさせてください、兄上」
一緒に。
――幸せになるために願い事をするのに、その幸せに兄上がいないのは
あの日の笹に結べなかった願いを。
――兄上の願いが叶ったとき、そこに兄上がいないのは、厭です。
ふたりでなければ、願えなかった。
互いが、互いの、願いの宛先だったから。
兄は弟の、弟は兄の、短冊だったから。
――兄上の願いが叶った先で、私の願いで兄上を、幸せの中に連れていきます。
楓真の体が、白い光を帯びる。柊哉を抱きしめたまま、微笑んで。
応えるように、柊哉も楓真を抱きしめる腕に力を込めた。柊哉の体も光が包む。
ならば、融け合わせることもできるということ。
ひとりの力の限界も、ふたりなら越えられる。
――生きるから、生きて。
心が、願いが、重なる。結び合う。
白い光が、ふたりを包む。
癒しの光。
蘇りの光。
生まれ、生き、愛し、願いを生む、命の光。
――ふたりで、一緒に。
抱き合って。
笑い合って。
泣き合って。
願い合って。
叶え合って。
――生きたい。
+
天地が
「……終わったのか……」
呟く蓮太の声が、最後の雨粒とともに、足もとに落ちた。
唇を引き結び、丘を上がっていく。彼らの決着を、兄弟の結末を、見届ける役目を果たすために。
丘の
彼らを止めることはできなかった。さだめを曲げることはできなかった。楓真も、柊哉も、ふたりとも蓮太は失いたくなかった。どちらも欠けずにいてほしかった。彼らを共に失わせずにいられる力が、
風が吹く。少しずつ
その先に、影を見た。蓮太の瞳が、大きく見開かれる。
影は、ふたつ。
こちらに向かって歩いてくる。
丘の
蓮太の足が、夢中で地を蹴る。
丘を駆け上がる。
蓮太に気付くと、彼らは、はにかんだ笑顔で、ふたり
もう片方の手は、互いに、固く繋いで。
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