あまつ風 向かふの岸に く君を

   しばし留めむ 我のふまで




 くらい坂道を、柊哉は独り、歩いていた。左右は闇で、何も見えない。柊哉ひとり分の幅の道だけが、暗闇の中、ほのかに淡く浮かび上がり、真直ぐに続いている。

 黄泉比良坂よもつひらさか現世うつしよから黄泉よみへと続く道を、柊哉は下りていく。

 音も、匂いも、灯りもない。ひとりきりの、一本の坂道。

 やがて、大きな門の前に行き着いた。見上げても、門の上部は闇の先で見えない。

 柊哉が近づくと、門は、ひとりでに、ゆっくりと、内側へ開いた。

 門の向こうは、さらに深い闇。光のない、常夜とこよ

 ゆらり、と、門の奥から、黒い影が現れた。黄泉の使者だ。人の形をしているが、顔はない。白木の三方さんぼうを捧げ持っている。折敷おしきの上には、神酒みきの入ったさかずきが載せられていた。黄泉戸喫よもつへぐい。これを飲めば、この身は黄泉のものになる。

 使者の後ろから、長い影の腕が、幾本も、触手のように伸びてきて、促すように柊哉を囲う。影の中に取り込むように、呑み込むように。

 柊哉は静かに、杯に手を伸ばした。そっと取り上げ、目を落とす。

 悔いはない。願いを叶え、望みをげた。あとは終わらせるだけ。

 楓真は生きる。生きられる。柊哉の願いの先へ、よわい二十五のくびきの先へ。

 微笑んでいられた。最後まで、楓真の前で、微笑んでいられた。兄でいられた。

 望むことは、もうない。願うことも、もうない。望みも、願いも、満ち足りた。

 それなのに。

 そのはずなのに。

「……どうして、私は……」


「こんなにも……寂しいのだ……」


 柊哉の声が、雫のように、震えて落ちる。

 独りの声。

 独りきりの声。

 瞬きながら落ちていく、星になれなかった願いの欠片のように。

 届く先のない、胸の内に秘めたままの心の雫。

 神酒みきに映り込む柊哉の面持ちは、兄の微笑とは程遠かった。兄の顔をしていられたのは、弟がいたからだ。柊哉が兄として在れたのは、楓真がいたからだ。今は、もう、そばに弟はいない。もう、兄ではいられない。

「……さよならだ」

 兄であった自分に、別れを告げる。

 目を伏せ、柊哉はさかずきに唇を寄せた。影の触手が、柊哉に巻きついていく。

 柊哉が、静かに、神酒を飲み干そうとしたときだった。

 ふわり、と、刹那せつな、柊哉の瞳の先に、あえかないろどりぎった。影と闇しかない空間の中で、灯るように鮮やかな、

「……桂花……?」

 小さな金色こんじきのひとひらが、神酒へと舞い落ちる。

 はらはらと、柊哉の上に、振りくように、桂花が降り注ぐ。

 柊哉に絡みついていた影の触手が、波が引くように、柊哉から離れた。続いて黄泉よみの使者も、桂花をいとうように後退あとずさり、黄泉の門の奥へと下がる。

 桂花の降る源を、柊哉は見上げた。けれど、頭上には闇が広がるばかりで、何の姿も見えない。それでも、確かに、感じた。感じられた。幼い自分が、かつて求めてやまなかった、懐かしい温もりを。

「……母上……?」

 桂花の最後のひとひらが、柊哉の頬を、そっと撫でる。

 声が聞こえたのは、そのときだった。

「兄上!」

 柊哉の背中に、届く声。

 ここにはないはずの声。

 どうして……。

 振り返っては駄目だと、思うのに。

 早く神酒みきを飲まなければと、思うのに。

 黄泉よみかなければと、思うのに。

「兄上……!」

 坂を駆け下りて。

 追いかけて。

 楓真は。

 弟は。

「兄上……っ!」

 呼んで。

 手を伸ばして。

「……楓真……っ」

 柊哉の手から、さかずきが離れる。

 微笑とは遠い色のままで。

 求める心のままに。

 よそおえない想いのままに。

 振り返る。

 まなざしが、重なる。

 瞳に映り合った互いの顔は、同じ表情をしていた。

 伸ばし合った腕が、届く。飛び込む。抱きしめる。強く、強く。

何故なぜ……っ!」

 震える声で、柊哉は言った。

「何故、私を追った……!」

 楓真の体は温かかった。

 黄泉よみくべき身ではなかった。

 追い返さなければ。

 楓真を現世うつしよに帰さなければ。

 退しりぞいた黄泉の使者は、また戻って来る。

「……兄上」

 温かい楓真の腕が、柊哉の背中に回っている。幼い頃は届かなかった腕が、今、柊哉を確かに、抱えている。

「……やっと……」

 柊哉を強く抱きしめて。

「やっと……兄上に追いつきました……兄上の背中に、追いつけました……」

 楓真の声が、滲んでいく。重なる頬に、温かな雫が伝う。

「一緒に帰りましょう、兄上…………言ったではありませんか……ふたりで、いてほしいと…………」

 いつかの雨の日が、よみがえる。


――独りに、ならないでください。


 柊哉に差しかけられた、楓真の傘。

 精一杯、背伸びをしても、柊哉に届かなかった、小さな手。

 それが今、届いている。柊哉を抱え、温もりを与えられるほどに。


――兄上が独りだと、私は悲しいです。


 星の流れる夜空のように。

 切なる願いを瞬かせて。


――独りに、しないでください。


 弟がいたから、兄でいられた。

 兄がいたから、弟でいられた。


――兄上がいないと、私は寂しいです。


 独りと独りでは、微笑めなかった。

 兄弟になって、ふたりになって、初めて笑い合えた。


――独りにしませんから、独りにしないでほしいです。


「兄上……私は、もうよわい七つの幼子おさなごではありません……こうして兄上を抱きしめることができます……この先、ずっと、何度でも、兄上を抱きしめることができます。だから……兄上の後ろではなく、隣に立たせてください。背中ではなく、顔を見せてください……微笑みだけでない兄上の顔を……そして、守らせてほしいのです。守られるばかりでなく、私に……兄上を、守らせてほしいのです」

 二度と、心が、砕けてしまわないように。

「……楓真……」

 柊哉の胸の奥で、心が形を取り戻していく。ずっと昔に割れて散らばったままの心の破片が、楓真の言葉を金継きんつぎに、器の形によみがえっていく。注がれる想いはたちまあふれ、柊哉の瞳から雫となって流れた。

「もう一度、願わせてください、兄上……」

 いつかの願いを、もう一度。

「私に、叶えさせてください、兄上」

 一緒に。


――幸せになるために願い事をするのに、その幸せに兄上がいないのはいやです。


 あの日の笹に結べなかった願いを。


――兄上の願いが叶ったとき、そこに兄上がいないのは、厭です。


 ふたりでなければ、願えなかった。

 互いが、互いの、願いの宛先だったから。

 兄は弟の、弟は兄の、短冊だったから。


――兄上の願いが叶った先で、私の願いで兄上を、幸せの中に連れていきます。


 楓真の体が、白い光を帯びる。柊哉を抱きしめたまま、微笑んで。

 応えるように、柊哉も楓真を抱きしめる腕に力を込めた。柊哉の体も光が包む。

 直毘なおびの霊力と大蛇おろちの神力は、使い分けることができる。

 ならば、融け合わせることもできるということ。

 ひとりの力の限界も、ふたりなら越えられる。

 現世うつしよで、柊哉ひとりでは、その身に封じることしかできなかった大蛇も、黄泉よみに近いこの場所で、楓真と、ふたりなら――


――生きるから、生きて。


 心が、願いが、重なる。結び合う。

 白い光が、ふたりを包む。

 はらいの光。

 癒しの光。

 蘇りの光。

 生まれ、生き、愛し、願いを生む、命の光。


――ふたりで、一緒に。


 抱き合って。

 笑い合って。

 泣き合って。

 願い合って。

 叶え合って。


――生きたい。





 天地がくつがえるかと思われた嵐が、止んだ。波打つ黒雲が晴れ、陽の光の柱が立つ。

「……終わったのか……」

 呟く蓮太の声が、最後の雨粒とともに、足もとに落ちた。

 唇を引き結び、丘を上がっていく。彼らの決着を、兄弟の結末を、見届ける役目を果たすために。

 丘のいただきは、もやが立ち込め、見えない。それでも、辺りの惨状から、彼らの戦いの激しさはうかがえた。放射状にえぐれ、大きく裂けた大地。け落ちた岩。炭化した木々。

 彼らを止めることはできなかった。さだめを曲げることはできなかった。楓真も、柊哉も、ふたりとも蓮太は失いたくなかった。どちらも欠けずにいてほしかった。彼らを共に失わせずにいられる力が、すべが、この自分にあれば良かったのに。願うことしかできなかった。祈ることしかできなかった。

 風が吹く。少しずつかすみが晴れていく。雲間から射す光に照らされて、霞の紗が、きらきらと輝く。

 その先に、影を見た。蓮太の瞳が、大きく見開かれる。

 影は、ふたつ。

 こちらに向かって歩いてくる。

 丘のいただきから下りてくる。

 蓮太の足が、夢中で地を蹴る。

 丘を駆け上がる。

 かすみの先から、ふたりの姿が現れる。

 蓮太に気付くと、彼らは、はにかんだ笑顔で、ふたりそろって片手を上げた。

 もう片方の手は、互いに、固く繋いで。

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