陸-2

 放たれた光の色は、楓真と同じ。だが、形は違う。柊哉の、それは、羽だった。

 無数の光の羽が、頭上を覆うように広がり、楓真の光の津波に向かって、一斉に降り注ぐ。

 羽の触れた草木がけ落ちる。燃やすのではなく、融かす光の塊。

 楓真の術が全てを喰らい尽くす海ならば、柊哉の術は全てを融かし尽くす陽烏よううだった。

 ふたりの間で、黒い光の海と羽が、重なる。

 無に帰す力の衝突。

 ぜる光。

 揺らぐ地。

 巻き立つ風。

 振動。

 衝撃。

 圧迫。

 奔流の中で、楓真はつるぎを握りしめた。

 光と光、闇と闇が、ぶつかる、その先に、立つ影に。

 向かう。

 駆ける。

 鏡のように。

 影も剣を構える。

 光が止む。

 闇が晴れる。

 現れる姿。

 唇を引き結ぶ。

 息を詰める。

 剣先がひらめく。

 飛び込む。

 瞳が、合わさる。

 その瞳に楓真が垣間かいま見たのは――柊哉が垣間見せたときには、既に決していた。

「……何故なぜ……」

 愕然がくぜんと目を見開き、楓真は柊哉を見上げた。

 愜然きょうぜんと目を細め、柊哉は楓真を見下ろしている。

 刹那せつな、垣間見えた瞳の色が、今、目の前に、確かにある。

 隠されていたものがあらわになるように。

 いましめられていたものが解かれるように。

 楓真を真直ぐに見つめる柊哉の瞳。

 硝子のような冷ややかさではなく、熾火おきびのような温かさをたたえて。

 慈しむように。

 愛しむように。

 何故。

 鏡であるはずだったのに。

 同じであるはずだったのに。

 自分が相手を刺し貫けば、相手のつるぎもまた、自分に等しい結果をもたらすだろうと。

 覚悟の上で。

 望みの上で。

 踏み込んで。

 飛び込んで。

 それなのに。

「……何故……つるぎを引いた……?」

 楓真の手が、真紅に濡れる。白刃を伝って。柊哉の胸から。

 楓真の剣は、柊哉に届いたのに。届けたのに。

 柊哉の剣は、楓真に届いていない。届けていない。

 楓真に届く直前で、下ろしたからだ。

 みずから、その身を、差し出すように。

「っ……何故…………!」

 楓真の声が震える。

 刺し違えるつもりだったのに。

 殺し、殺される、つもりだったのに。

 共に、死ぬ、つもり、だったのに……。

「……このときを、待っていた」

 顔を伏せ、柊哉は言った。体の横に下ろしていた、つるぎを持つ手の力を抜く。

 手放された柊哉の剣が、音を立てて、足もとに転がる。

 刹那せつなまばゆい白い光が、楓真の視界をぎった。

 見ると、八枚の鏡が、楓真と柊哉を中心に、ふたりを囲むように浮かんでいる。

 白い光はそれぞれの鏡で反射し合い、八芒星を描くと、さらに光を強めていく。

「……大蛇おろちの解放には……八門の鏡と、にえが必要…………」

 柊哉がささやく。吐息とともに、口もとから血がこぼれる。

「……だが、安心しろ……大蛇は復活などしない…………私の、本当の目的は……別だ」

 全ては、今この瞬間のため。

 大蛇おろちを復活させると言えば、楓真は必ず、それを止めようとするだろう。

 大蛇に心を喰われた振りをすれば、楓真は迷わず、つるぎを振るえるだろう。

 九年かけて、舞台を整えた。

 楓真が、確実に、柊哉を殺せるように。

「……何……言って……」

 葉先で震えるつゆのように、楓真の声がこぼれ落ちる。

 顔を伏せたまま、柊哉が微かに笑みを浮かべる気配がした。

「……大蛇おろちの呪いは……解けない…………だが……解放し、取り出して……別の身に封じることなら……私の力で……ひとりだけ…………」

 柊哉が小さく咳き込む。吐いた血が、細い顎を伝い、白い首もとを流れていく。

 白藍しらあいの衣が、胸からあふれる血に染まっていく。

「……封じる……?」

 楓真の脳裏を、記憶がかすめる。九星の氏族ならば誰でも知っている、自分たちの呪いの起源。


――数百年の昔、直毘なおびの氏族は大蛇おろちと戦い、その身に封印した。


「まさか……」

 同じことを、しようとしているのか。

 ひとりで。

 ひとりきりで。

 ひとりのために。

「楓真」

 柊哉が顔を上げた。楓真を見つめて微笑んだ。

 兄の顔だった。

 優しく、愛しい、楓真の兄の顔だった。

「お前に手荒なことをした……痛かったろう……すまなかった……」

 楓真の体から大蛇を引きずり出すためには、楓真の大蛇を目覚めさせる必要があった。怨みと憎しみを、き立てる必要があった。

 心を殺して。

 隠し通して。

「楓真」

 微笑む。それは、あの日と同じ微笑だった。七夕飾りが揺れる笹の下、楓真の瞳に願い星を見て、切なげに目を細めた、十二歳の兄の微笑。砕けた硝子の破片が、光に濡れて輝くような、美しくも切ない微笑。

 柊哉の手が――兄の手が、楓真の頬に、そっと触れる。温もりを失いゆく手が、楓真の頬に、花のように重なる。

 優しく。

 愛しく。

 笑って。

「お前の大蛇おろちを、私の体に封印する」


にえは私だ。……生きろ、楓真」


 鏡の光が、一層、まばゆく、ふたりを包む。

 兄の指先が、楓真の頬から離れる。

 楓真のつるぎが、兄の胸から抜ける。

 力を失い、倒れゆく体。

 目を閉じ、微笑みながら、兄は最後の術を、放つ。


――かえせ、伊邪那美いざなみ


 光の柱が、天地に伸びる。真白にくらむ視界の中、くずおれる兄の姿だけが見えた。

 楓真は夢中で手を伸ばす。

 膝を折り、兄の体を抱きかかえて、

「っ……」


「兄上……っ!」


 呼ぶ。

 呼ばなかった呼び名を。

 呼べなかった呼び名を。

 呼びたかった呼び名を。

 九年の時を経て。

 声の限りに。


――兄上は、短冊に、どんな願い事を書くのですか?


 幼い日、兄に尋ねたことを、思い出す。

 あのとき、兄は楓真に、微笑んで答えたのだ。


――お前が、おきなになるまで生きられますように、かな。


「っ……兄上……!」

 同じだった。

 同じだったのだ。

 幼い願いを、あの日の願いを、楓真が抱えて生きたように、兄もまた、ずっと、変わらない願いを抱えて、生きてきたのだ。


――ならば私は、兄上がおきなになるまで生きられるよう願います。


 ゆるされない願いだと、楓真は、兄もろとも、願いを殺そうとしたのに。

 兄は、その願いのために生きたのだ。みずから願いを叶えるために、殺されるために、生きたのだ。

 九年。独りで。

 光の中、兄の体を抱きしめる。楓真の体から、兄の体へ、大蛇おろちが流れていくのが分かる。楓真の大蛇が兄と繋がり、大蛇を通じて、兄の記憶が、流れ込んでくる。

 兄が抱えていたものを、楓真は知った。兄が、何故なぜ、一族を滅ぼしたのかも。

「……兄上は……独りで……」

 顔を伏せ、楓真は肩を震わせる。自分には頼れる兄がいたのに、兄は独りだった。幼い自分では、兄を支えることも、守ることもできなかった。

 ひらり。兄の胸もとから、小さな白藍しらあいが、ひとひら、舞い落ちた。折り鶴だった。楓真の喉が、呼吸を止める。知っている。憶えている。忘れるはずがない。これは、この鶴は、七歳の自分が、兄に宛てて折ったもの。兄の生が末永いものでありますようにと、一折、一折、願いを込めて折った、御守りの鶴。

 畳まれた翼の先に、赤錆あかさび色に滲む、母の血の跡。その上に、鮮やかな真紅の、兄の血が広がる。染まっていく。白藍が、兄の色が、血の色に消えていく。

 血溜まりに沈む折り鶴を、楓真は拾い上げた。

「……まだ、終わりじゃない……」

 腕の中の兄を見つめる。閉ざされた瞳。動かない胸。それでも、抱きしめた兄の体には、まだ、温もりがある。今なら、まだ、追いつける。追いついてみせる。

 楓真の大蛇おろちは、まだ完全には封じられていない。今、兄と楓真は、楓真の大蛇によって繋がっている。ならば、追っていけるはず。兄へと移りゆく大蛇をしるべに、黄泉よみへと続く道を辿たどり、兄を追いかけることができるはず。

 追いついてみせる。今度こそ、兄の背中に。

 満ちる光の中で、楓真は目を閉じた。兄を、強く、抱きしめて。

 兄の放った術と対を為す術を、兄の術に重ねる。


――だせ、伊邪那岐いざなぎ

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