陸-1

   ひさかたの 天叢雲あめのむらくも 打ち重ね

   共に果てなむ 天羽々斬あめのはばきり




 北へと向かう足跡を、梅雨の季節が追いかけてくる。何とか雨に降られる前に、楓真と蓮太は七つめのほこら辿たどり着いた。既に鏡は奪われ、これまでと同様、無惨に焼け落ちている。

 祠があった場所の近くに、故意か偶然か、焼け残ったさかきの木があった。気付いた楓真が、木の下に歩いていく。

 ちょうど楓真の背の高さにある枝に、御籤みくじのように結ばれたふみがあった。解いて、広げる。九年振りに見る、兄の筆跡だった。日時と場所が、簡潔に書かれている。いわく、七夕の前日、あけぼのに、生門せいもんの祠の東にある丘の上で待つ、と。

「……俺たちがこれを読む頃には、八門の鏡を全てそろえていることを見越していたみたいだな……」

 蓮太が呟く。文を畳みながら、楓真は静かに言った。

「あいつは、大蛇おろちの解放と復活には八門の鏡とにえると言っていた……私という贄が揃わない限り、あいつがいたずらに災いをすことはないだろう」

「……あのなぁ……」

 そういう問題じゃ……と、蓮太は顔をしかめたが、その先は口をつぐんだ。ふみを握りしめる楓真の手が、小さく震えていた。

「……追いかけて……追いついて……振り向かせてやるつもりだったのに……」

 楓真が来るのを、兄は待つという。

 追いついた楓真に止められるのでなく、みずから足を止め、楓真を迎えるという。

 待っているから、来いという。

「……良いだろう……望み通り、行ってやる……終わらせてやる……」

 きびすを返し、馬の手綱を引く。後ろに続く蓮太の、何か言いたげな視線を感じたが、楓真は振り返らなかった。

 七夕の前日――九年前、全てが一変した日と、同じ日付。降り注いでいた温かな優しさが終わり、底から湧き出る冷たい憎しみが始まった。その憎しみを、ついに終わらせる。……兄の命と共に。

 楓真の七夕は、もう二度と来ない。九年前の、七夕の前夜に、ついえてしまった。楓真が願いをかける日は、もう二度と訪れない。


――兄上がおきなになるまで生きられるよう願います。


 あの日、短冊に書くと決めた願いは、七夕の日を迎える前に、ゆるされない願いになってしまった。もう願えない。願うことはできない。もう二度と。永遠に。


――生きるから、生きてください、兄上。


 心から願っていたのに。唯一の、絶対の、願いだったのに。

 赦せない。

 赦されない。

 ならば……。

「……最後に……」


「死ぬから……死んでくれ」


 つるぎつかを握り込む。

 空には暗雲がせまり、遠雷のとどろきが、背中で聞こえた。





 夜通し降り続いた雨は、明け方近くになって上がった。空を覆っていた黒雲が、所々、まだらほころんでいる。

 夜明け前の薄明かりの中、丘のふもとで、源新と別れた。

「世話になった」

 吹き抜ける風に、柊哉の髪がなびく。もう傘を被る必要もない。

 源新は、この先さらに北へ旅を続けるという。薬師を必要とする村に行き着けば、そこに根を下ろすつもりだと。

「さよならだ」

 柊哉は微笑む。源新も、微かに笑った。

「柊哉殿」

 きびすを返す刹那せつな、源新は、一言だけ、柊哉にはなむけの言葉を送る。

「明日は七夕です……七夕は、別名、星合ともいいます。……願わくは、貴方が、明日も生き、望む方と共に在られますよう……」





 僅かに空が白み始めた薄闇の中、雨の雫に濡れた草を踏んで、楓真は丘を上がっていく。棚引く雲の向こうに、朝焼けのくれないが滲んでいた。

 蓮太には、丘のふもとで待つように言った。楓真は今、独りだった。

 やがて、夜を押し開けるように、丘の先から金色の光が広がった。全てが曖昧あいまい微睡まどろむようだった薄闇が晴れ、景色の色彩、輪郭が、一気に澄み渡る。

 光の射す丘の上、朝焼けを背に、兄は――天蓬柊哉は、立っていた。

 彼もまた、独りだった。

 桜堤で邂逅かいこうしたときより、彼は少しせたようだった。それでも、たたえた微笑の色は、いささかも変わらない。

「……来たか」

 穏やかな声で、彼は楓真を迎えた。だが今は、その穏やかさが残酷に耳に響いた。

「待っていた」

 柊哉は微笑む。その瞳には、僅かな感情のさざなみもなかった。曇りひとつない透明な硝子のように、どこまでも冷然といでいた。

大蛇おろちの力を手懐てなずけたようだな」

 風が吹き抜け、柊哉の髪を、白藍しらあいの衣を、なびかせる。

「手懐けたんじゃない。じ伏せたんだ」

 お前と一緒にするなと、楓真は柊哉をにらみつけた。

 激しい殺意を向けられても、柊哉の表情は変わらなかった。美しい微笑は崩れず、ゆがむことも、にごることもなかった。もしかしたら、彼は、もう、何かを感じる心が抜け落ちてしまったのかもしれないと、思うほどに。

「そうか」

 楓真の言葉に、柊哉は、ただうなずいた。

 吹き抜ける風の中、鏡のように、正面に向かい合う。

「ならば……見せてみろ」

 微笑の陰に、柊哉の瞳がひらめくのを、楓真は見た。

 地を蹴る。

 つるぎを抜く。

 いつかと同じ、無数の赤い光の刃が飛んでくる。

 同じ手は、二度は食らわない。

 楓真ははじく。

 駆けながら、楓真はつかを握る手に力を込めた。

 高く跳び、息を詰め、大きく振る。


――焼き払え、火之加具土ひのかぐつち


 巨大な火球が、楓真のつるぎから放たれる。

 ちりちりと周囲を焦がしながら、それは豪速の火炎となって柊哉に向かった。

 柊哉も剣を、静かに抜く。

 流れるように、振って。


――ぎ払え、綿津見わたつみ


 剣の軌跡から、厚い水の壁がそびえ立った。火球とぶつかり、沸き立ち、白い蒸気が周囲を染める。

 互いの技は、互いを打ち消し、互いに食らい合うように霧散した。

 残った蒸気が霧雨となり、ふたりの間に降り注ぐ。一部はかすみとなって辺りを包む。広がる白の紗が、視界を閉ざす。

 柊哉がつるぎを構えた瞬間、立ち込めるもやの中から、楓真が躍り出た。

 刃と刃のぶつかる鋭い音が、響く。

「……お前は私が……ここで殺す……大蛇おろちを復活なんて……絶対にさせない……」

 交差する剣。拮抗する力。軋む刃の先、柊哉の顔が、間近に見える。楓真と同じ作りの顔。まるで、五年後の楓真が、そこにいるように。

 けれど、表情は、まるで違う。

「止められるものなら、止めてみろ。……お前が私を殺せるのなら」

「ああ。……そのつもりだ」

 微笑と激情。凪と嵐。正反対の面持ちで、相手を見つめて。

 刃のれる音。離れては、また打ち合う。

 互いにかわしては踏み込み、一歩たりとも退かない。

 散る火花。一際ひときわ、強い音を立てて、互いの刃がはじき合い、距離を取る。

 間髪入れずに、剣先を、相手に向ける。

 鏡に映したように、寸分たがわず、等しい動きで。


――散らせ、建御雷たけみかづち


 同じ技を、放つ。

 剣先からほとばしった白い光が、土を割り、草木を焦がし、雲をつらぬく。

 ふたりの中央で、光はぶつかり、血脈のように、放射状に広がる。

 完全に拮抗する、それは、まるで、もうひとりのおのれと戦うようだった。

 明滅する強い光の中、楓真も柊哉も、既に次の技を定めていた。

 光が止む。

 灰が舞う。

 地を蹴る。

 つるぎを構え、振り被る。

 今度は、ふたり、別の技。


――め、素戔嗚すさのお


 楓真の剣が、黒い光を帯びる。まばゆいのにくらい。強すぎる光に目の焼ける、黒。

 楓真は剣を振り下ろす。剣先の向かう大地から、黒い光の海が湧き立つ。それはたちまち巨大な波高となり、津波のように柊哉に向かった。視界を塗り潰していく黒。触れたものは消えていく。燃えるでもなく、潰れるでもなく。まるで最初から何もなかったように、跡形もなく、光に喰われて。

 迫る光を静かに見つめ、柊哉もまた、剣を振る。


――け、天照あまてらす

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