伍-6

 清流のそばの木陰で、源新は柊哉の傷の手当てをした。処置のため、柊哉は渋々、片肌を脱ぐ。今まで衣に隠れて見えなかったが、柊哉の体には、ここ数か月の間についたと思われる傷痕が幾つもあった。

「……もっと丁寧に、適切な手当てをしていれば、ここまで傷が残ることはなかったでしょうに……」

 源新が眉根を寄せると、柊哉は笑った。

「あと一月ひとつきもせぬ間に、不要になる体だ」



 夜。山の中腹の洞窟に、火をいて寝床を作る。都では、もう紫陽花あじさいの咲きそろう季節だが、北の地の山は、初夏でも冷える。

 寝返りを打った拍子に、ふと目覚めた源新は、隣で眠っているはずの白い背中がないことに気付き、上体を起こした。

 洞窟の入り口、焚火たきびの向こうに、銀の髪が揺れる。解いた髪は月の光に濡れて、昼間よりも一層、清らかなきらめきを放ち、夜風にかれて、細い背中をさらさらと流れていた。

「眠れませんか」

 源新が言葉を掛けると、柊哉は背を向けたまま、少しな、と短く返した。

「私も、そちらへ行っても……?」

「……ああ」

 声音からも、様子からも、源新を拒む気配はなかったので、源新は柊哉の隣に、けれど近すぎないよう、人ひとり分の距離を空けて、座った。

 望月が、南の空高くに浮かんでいる。皓々こうこうと照る白い光は、眩しいほどだ。

 東寄りに目を移せば、月の光にかすみながらも、白く流れる天の川も見える。

「梅雨入り前の、最後の満月ですね」

 半ば独り言として呟きながら、かたわらの柊哉を見ると、月を見上げているものと思っていた彼の視線は、彼自身のてのひらに注がれていた。

 白藍しらあい色紙いろがみで作られた折り鶴。羽はたたまれ、縁に赤錆あかさび色の染みがあった。古い血の色だ。紙の質感から、ずっと昔に折られた鶴だと分かる。けれど、血の染み以外の汚れやしわはなく、彼が大切に持ち続けたものであることがうかがえた。

「御守りですか」

 問いかけではなく、確認の声音で、源新は言った。柊哉は、ちらりと源新を見て、小さくうなずく。

 折り鶴を見つめる柊哉のまなざしは柔らかかった。温かく、優しく、それでいて遠い昔を慈しみしのぶような、微かに寂しげな色をしていた。

 彼の生が末永きものであれと、願った者がいたのだ。

「貴方の一族が受けた呪いは……どうしても解けないものなのでしょうか……」

 柊哉が何の目的でほこらを巡っているのか、源新は知らない。柊哉も語らない。だが、みずからの呪いを解くためではないらしいことは、柊哉の様子から分かった。

「幼い頃、一族の書物庫にあった記録を全て読んだ。私の世代まで、数百年、解くすべを見つけることが叶わなかった呪いだ。おのれの身に受け継がれた呪いを、己の力で解くことはできない」

「……では、貴方は……」

 言いかけた唇を、源新は引き結んだ。視線を上げた柊哉の瞳が、源新の唇を縫い留めていた。言うな、と。暴かないでくれ、と。


――望む死に方をするために、生きておられるのですか?


 柊哉と出会った日、彼に尋ねた言葉を、思い出す。その問いに対し、彼が返した答えも。


――望む生き方が、望む死に方なのだ。


 願いを叶えるために旅をしているのだと、彼は言っていた。そして、その願いは、もうすぐ叶うのだと。

「……その鶴を折ったのは、貴方と同じ一族の方……」

「ああ。……弟だ」

 柊哉は静かに微笑んだ。源新が初めて見た、彼の、兄としての微笑だった。

 あぁ、どうして……。柊哉の瞳を見つめる、源新の喉が震える。吐息が揺れる。

 彼の瞳には、こんなにも深い悲しみがあるのに、こんなにもくらい孤独があるのに。

 どうして、彼は今、独りなのだろう。独りきりでいるのだろう。

 源新にゆるされるのは、人ひとり分あけた場所に座ることだけだ。その空白を埋められるのは……彼の隣に、傍に、寄り添えるのは、たった一人しかいないのに。

「もうすぐ会える。……次の祠で最後だ」

 折り鶴を、そっと懐に収め、柊哉は笑った。月の光よりも淡く、優しく、温かい、それは、星の光のような微笑だった。願い星のような、はかなさだった。

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