伍-5

 豊かな水量を誇る滝の裏を通り、獣道を進むと、人知れず、ひっそりと建つほこらが見えてきた。鬱蒼うっそうとした森の中で、その祠の周りだけ、下草が刈られ、枝が払われ、整えられている。古い祠だったが、げた朱は何度も重ねて塗り直され、朽ちた所も取り換えた跡があった。数百年の昔から、定期的に修繕がほどこされているのだ。

 祠に向かって歩いていた柊哉は、祠まで残り十丈はあろうかという地点で、足を止めた。後ろの源新が、数歩、遅れて、立ち止まる。

「そこの岩陰に隠れて、身を伏せていてくれ。ここから先には、絶対に近づくな」

 かぶっていた傘を取り、源新に渡すと、柊哉は祠に向き直り、おもむろに印を結んだ。


――囲め、天牢てんろう


 自分を内側に、そして源新を外側にして、柊哉は白い光のおりを展開する。万が一にも、この檻の外に危害が及ぶことのないように。

 八門の一つ、死門の鏡を神体とする、七つめの祠。これまでの六つの祠に封印されていた禍津日まがつひは、おおとりきつねなど、様々な姿をしていた。この祠に封じられている禍津日は、果たして、どんな姿なのか。

 柊哉は静かに、祠へと歩いていく。一陣の風が、冷たく吹き抜けていった。

 祠の扉に、手をかざす。刹那せつな、祠の前に、巨大な白い光の門が現れた。音はない。だが、軋むように、ゆっくりと、それは開いていく。晴れ渡っていた空は、急速に雲が湧き立ち、陽の光を覆い隠していく。昼間なのに、辺りは宵の口のように暗くなった。

 強大な禍津日まがつひは、ひとつの災害に等しい。特に、ほこらを建てて封じなければならなかったほどの怨念ならば、尚更なおさら

 開いた光の門の奥から、見上げるほど大きな、黒い影が姿を現した。爛々らんらんと光る赤い眼を持つそれは、狼の形をしていた。

 柊哉は静かに、それを見据みすえる。


――ねむれ、月読つくよみ


 禍津日が動く前に、柊哉は素早く術をかけた。祠に封印するほどの禍津日では、簡単には効かない。それでも僅かに動きを鈍らせることはできる。

 黒く波打つ雲の下を、稲光いなびかりが走る。狼が牙をいた瞬間、柊哉は唇を引き結び、真横に跳んだ。天地を引き裂く雷光が下る。耳をつんざく轟音と地響き。柊哉の沓跡くつあとがくすぶり、焦げた土の匂いが立つ。続いて激しい雨が叩きつけ、渦巻く風が木々をしならせた。

 ひらりと着地した柊哉の瞳が、光の軌跡を描く。


――引き裂け、てんろう


 印を結ぶ。無数の光の牙が、禍津日へと向かった。黒い影の姿、その中に、光の筋が幾本も走る。禍津日が裂ける。細かいむしの集合が、散っても再び集まるように、裂けた禍津日の体が修復する。だが、体の大きさは、幾分、小さい。

 縮んでいるのだ。少しずつ。けずれるように、はらわれている。

 しかし、時間は掛けられない。吹きつける雨風、そして落雷……長引けば、この土地の災害になる。

 禍津日のいかずちを避けながら、柊哉は術を繰り返した。禍津日が、狙った大きさになるまで。

「……これくらいなら、包めるか」

 躍り出た禍津日の牙を、身をひるがえしてかわし、柊哉はつるぎを抜いた。

 刃が赤く発光する。炎が上がる。


――焼き払え、火之加具土ひのかぐつち


 つるぎを振る。禍津日まがつひの周囲に、赤い光の輪が現れ、瞬く間に燃え盛る炎に包まれる。吹き降りの雨にも衰えない紅蓮ぐれんの炎が、禍津日を焼く。火はさらに広がり、祠からも炎が上がった。

 禍津日がのたうつ。狼の姿をしたそれは、咆哮ほうこうするように大きく口を開け、柊哉に飛び掛かった。牙が、爪が、せまる。飛び退すさりながらつるぎを一閃。禍津日を斬り払う。刹那せつな、禍津日の爪が腕をかすめ、柊哉は小さく舌打ちした。着地と同時に、体を反転。ひらめく瞳が、禍津日をとらえる。


――散らせ、建御雷たけみかづち


 耳をつんざく雷鳴とともに、白い光のつるぎが、禍津日に突き立つ。光の両端は、大木が枝をしげらし根を張るように、周囲にまばゆく広がり、触れたもの全てを炭と灰にした。草木も、祠も。

 炎に焼き尽くされ、光の剣を穿うがたれた禍津日の体が、崩れていく。霧散する影。黒雲が晴れ、風が止み、雨が上がっていく。辺りは再び、初夏の陽気に包まれた。

 柊哉は小さく息を吐く。禍津日から受けた腕の傷はそのままに、柊哉は燃え落ちた祠へと歩いていく。

 炭と灰の中から、柊哉は一枚の鏡を拾い上げた。直径が五寸ほどの、青銅の鏡だ。縁に細かな装飾のほどこされたそれは、僅かに白い光を帯びている。柊哉は、それを、そっと抱えた。そして、ふと、視線を移す。

 祠の近くに、一本だけ、燃えずに残ったさかきの木があった。柊哉の足が、そちらへ向かう。ふところから一通のふみを取り出し、御籤みくじのように、枝に結んだ。

 祠の跡にきびすを返し、柊哉は天牢てんろうの術を解く。周囲に張り巡らせていた光の檻が、ふっとき消える。

「柊哉殿!」

 途端に、源新が駆け寄ってくる。柊哉の怪我に気付き、彼は顔色を変えた。

「触れるな」

 傷をようとした源新から、柊哉は身を離す。

其方そなたけがれが移る。今の私の体に触れるな」

「穢れ……?」

 源新が眉根を寄せる。

「貴方に出会った日、怨霊を退治した貴方を抱き上げても、私は何ともありませんでしたが……」

「あれは偶々たまたま禍津日まがつひが弱く、其方が感じるほどの霊障を受けずに済んだだけだ。今は違う」

「ですが、傷が……」

「触れるな!」

 手を伸ばした源新に、柊哉は、さらにかたくなに身を引く。

 禍津日まがつひはらえば、その身にけがれを帯びる。直毘なおびの霊力が強い者は、穢れにもある程度、耐性があるが、力を持たない者、力が開花していない者には、猛毒に等しい。

 にらみつけて拒む柊哉に、源新は小さく嘆息し、手を下ろした。

「……分かりました。しかし、傷の手当ては、どうなさるのです?」

みそぎをした後、焼いて止血する」

「っ、何ですと⁉」

 さらりと答えた柊哉に、源新は血相を変えた。

「ご自分で傷を……⁉ 貴方は、いつも、そんなことをなさっているのですか⁉」

「ああ。もう慣れたものだ」

 穢れに耐性のある身でも、傷を負わされれば、そこから霊障が広がる。火で清めるのが一番、手っ取り早い。負傷したのは不覚ではあるが、直毘なおびの祖先が祠に封じなければならなかったほどの禍津日だ。無傷でいられるほど甘くはない。

「……禊の後であれば、貴方の体に触れても良いのですね?」

 少しの沈黙を挟んで、源新が低い声で言った。

「ああ……それは、そうだが……」

「なら、させてください」

「何……?」

「傷を焼くのも、その後の手当ても、私に任せていただきたい」

 真剣な瞳で、源新は柊哉を見つめる。

 禍津日まがつひの爪がかすめた腕の傷は、まるで強酸を浴びせられたように赤黒くただれ、血が滲み出ていた。もし、あのまま禍津日にみ込まれていたら、全身が焼け爛れてけ落ち、死んでいただろう。

「……これも、其方そなたへの礼として、か?」

 薄く笑い、柊哉が源新に瞳を合わせる。源新もほのかな、かげのある笑みを浮かべた。

「ええ。……そして、私から貴方への御礼、です」

 いおりで結んだ契約は、今でも解けずに、真綿のように柔らかく、柊哉を繋いでいた。

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