伍-1

   夕星ゆうづつは 遥か天道あまぢを 通へども

   ことは通はぬ 遠き我が背子せこ




 村外れの林の、さらに先の岩場。切り立った崖のそばに、古い木の柱が一本、立てられていた。辺りに人影はない。ただ一人、その柱にはりつけにされた男を除いて。

 男の名は源新げんしん三十路みそじを過ぎたばかりの、大柄な男だ。よく日に焼けた赤銅色の肌に、癖の強い黒髪。ほりの深い精悍せいかんな顔立ちをしている。

 辺りには、村人たちが男に投げた石が散らばっている。打ちえられ、顔も体もあざだらけだったが、男は、まだ生きていた。

 霧雨を降らす薄墨色の空。男の頭上を、猛禽の鳥が旋回している。男が死ぬのを待っているのだ。その死肉をついばむために。

「……気が早い鳥ですねぇ……」

 源新は笑う。切れた唇に痛みが走り、苦く眉根を寄せ、滲む血をめた。

 いっそ意識がなくなれば、楽になるだろうか。しかし、幸か不幸か、自分の体は強靭きょうじんで、なかなか衰弱しないらしい。自嘲を溶かした溜息を吐き、源新が顔を伏せたとき、頭上の鳥が慌ただしく飛び去る羽音が聞こえた。

 顔を上げた源新の瞳が、ざわざわとい寄る影をとらえる。

 暮れなずむ雨天の下、その影は、まるでそこだけ光を吸い尽くしたように、どこまでも暗い闇を広げている。ず、ず、ず、と地を這うそれは、人の背丈の倍はあり、形を定めず、蚯蚓みみずのように伸縮しながら、源新に近づいてくる。

 怨霊だ。この身に取りくつもりなのだと、源新は察した。しかし、はりつけにされている体は、逃げることもできない。

 力尽きるより前に、取り殺されるのか。

 源新のこめかみを、冷たい汗が流れたとき、

「っ、何……⁉」

 影の後ろから、白い光の矢が飛んできた。それは正確に影をとらえ、標本のように、その場に縫い留める。続いて、ひらり、と、岩場の先の林から、白い影が現れた。

 白藍しらあいの衣に、紺瑠璃こんるりはかま垂衣たれぎぬの付いた傘を被っているから顔は見えないが、体つきから青年であることは分かる。流れるような所作で、青年は影に肉薄すると、すっとつるぎを抜き、影を斬った。影は、しばらく、源新に追いすがるようにぶよぶよとのたうった後、ざらざらと崩れ、跡形あとかたもなく消えた。

「……まほろばの人……?」

 源新が呆然と呟く。怨霊も、それをはらう一族の存在も、話に聞いたことはあるが、この目で見たことはなかった。

「……其方そなた

 怨霊を斬った青年が、傘をかぶったまま、源新を見上げた。

何故なぜはりつけになどされている?」

 若い声だった。としは源新よりも一回りほど下だろう。低く落ち着いた成人の声だったが、そこに大人特有のにごりはなく、少年のように澄んだ音色をしていた。尋ねる口調は柔らかく、暴力にさらされた者に対するいたわりの色があった。

「……友人の墓をあばいて、その遺体を切り開いたのです」

 青年の声の温かさに、うながされるように源新は答えた。

「私は、薬師くすしをしておりました……人体の構造を、正しく、詳しく、知りたかったのでございます……友人は私の理解者でした……やまいで死んだのち、私に遺体を使えと、みずから供してくれたのです……」

 しかし、他の村人には、それは到底、信じられるものでも、受け容れられるものでもなかった。源新は気が触れたのだと、悪しきものが取りいたのだと、そしられ、怖れられ、こうしてはりつけにされ、野ざらしの死罪となった。

 源新の言葉を、青年は静かに聞いていた。源新が話し終えると、青年は、一歩、源新に近づく。

 源新の手足を結わえていた縄を、青年は切った。はりつけにしていた柱から、源新を解放する。源新は驚いて青年を見下ろした。青年も長身だったが、源新は大柄で、縦にも横にも、青年より幅があった。

「良いのですか……? 私は、罪人ですよ……?」

其方そなたの話がまことなら、其方に罪はない」

 青年は静かに答えた。薄暗かった源新の瞳に光が灯り、大きく見開かれる。

「私の話を、信じてくださるのですか……」

 声を震わせ、源新は、青年に礼を言おうとした。しかし青年は、それよりも早くきびすを返し、岩場から歩き去ろうとする。

 呼び止めようとした源新が、思わず手を伸ばすのと、青年の体が、ふらりと揺らぐのは、同時だった。

「っ、どうし――」

 よろめく青年の体を、咄嗟とっさに支えた源新は、その体の細さに愕然がくぜんとする。見ると、青年は苦しげに肩を震わせて、浅い息を吐き、胸の辺りをつかむように押さえている。

「ちょっと失礼しますよ……!」

 青年の被っていた傘を、源新は取り去る。鮮やかな銀の髪と金の瞳があらわになる。だが、源新が目を留めたのは、青年の容姿ではなく、顔色だった。血の気の引いた青白い頬。赤みのない唇。

 気付いたときには、源新は青年を抱え上げ、地を蹴っていた。

「っ、なに……を……」

 源新の腕の中で、青年が身じろぐ。青年の体は、その長身に、あまりにも不釣り合いな軽さだった。

 焦燥に駆られるまま、源新は思わず、大声で言った。

薬師くすしとしての務めを、果たさせていただきます……!」

 林を抜け、沢を渡り、森に入る。村人たちに焼かれてしまっただろうかと危惧したが、森の中にある源新のいおりは無事だった。

 戸を蹴破けやぶり、囲炉裏いろりそばに青年を降ろす。脈をるために触れた青年の手首は、目をみはるほど細かった。

「……やはり、脈が、異常に速い」

 源新は手早く棚から幾つかの包みを取ると、中の粉を少量の水に混ぜて溶かした。本当は湯に溶かしたほうが良いのだが、今は一刻も早く服用させるほうが大事だ。

「薬です。お飲みください。少しは楽になるはずですから」

 源新が差し出した湯呑ゆのみを、しかし青年は受け取らなかった。顔をそむけ、唇を引き結ぶ。

「……らない」

何故なぜ?」

 源新は眉根を寄せた。なおも苦しげに息をつきながら、青年は答える。

「この発作はやまいではない……呪いだ。薬で治るものではない」

 それに……と、青年は続けて、声を低めて言う。

「私にとっての……罰でもあるから……」

「罰……?」

「ああ。だから構うな……少し休めば、波は去る」

「そうでしょうか」

 青年が言い終える前に、源新は言葉を重ねて言った。

「たとえ呪いがその苦しみを引き起こすものであったとして、そのしるしが体に現れるものならば、その体の症に効く薬で和らげる手立てがあっても良いでしょう」

 湯呑ゆのみを握る手に、ぐっと力を込めて。

「それに……罰、とおっしゃいますが、罰とは、それを与える資格のある者が下すべきものであって、みずから科すべきものではございません。自ら負うべきは、罰ではなく、つぐないです。いたずらに自らの身に辛苦を与えることは、償いとは言えないでしょう」

 源新は青年を見つめた。しかし、青年はかたくなに目をらしている。

「……仕方ありませんね」

 失礼、と源新は、言うが早いか、右手で湯呑を持ったまま、左手を、さっと青年に伸ばした。青年の体が警戒に強張こわばる前に、源新は左手の親指を、青年の口に差し込む。そのままじ開けるように固定すると、素早く薬を注ぎ入れる。身をよじった青年を押さえ込み、その口を塞ぐ。青年の喉が、微かに嚥下えんげする気配がした。

「……ご無礼、つかまつりました」

 薬の服用を確認すると、源新は、すっと、青年から離れた。

 口もとに手の甲を当て、青年は源新をにらみつけたまま、しばらくは苦しげに肩を上下させていたが、間もなく薬が効き始めたようで、次第に呼吸が和らいでくる。蒼白だった頬に血色が戻り、唇にも赤みが差す。

「どうです? 治せずとも、抑えることはできたでしょう」

 源新の言葉に、青年は無言で鋭いまなざしを向けた。源新は僅かに肩をすくめる。

「ええ。私が勝手に、私の意地で、働いた暴挙です。申し訳ありません。……私は、どうしても、貴方に命を助けていただいた恩を返したかったのです……薬師くすしとして」

 源新は小さく笑った。そして、ふと左手に目を落とし、今しがた向けた笑みとは種類の異なる、柔らかな色を滲ませて微笑んだ。

「貴方は……私の指に、いささかも歯を立てなかった」

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